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計測できそうでできない多くのこと。エンピリカル(実証的)アプローチで。

「レビューで一体何が指摘されるか想像もつかない」という不信感

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どのようなタイプの指摘がされるか予測できないレビューは、形骸化しやすく、効果もそれほど高くないことが多い。「たしかに指摘は正しいのだが、ここではそのような指摘は必要なかった」というもので、どのような形であれ経験をお持ちではないだろうか。「さっさと終わらせてしまって実施エビデンスだけを残してしまおう」と思われ、形骸化していく。

たとえば、バグをみつけることが目的で実施されているコードレビューで拡張性の指摘が連発される。目的を再確認しようとすると「そういうところを軽くみてるから、バグを混入してしまうんだ」というような指摘。多くの方に経験があるのではないだろうか。

全く逆で、非常に修正が簡単で本質的でない指摘だけをして、レビューを実施したエビデンスを形式的に作るだけのレビューもある。2つ以上の部門が絡んだりして、自分のところは自分で、他所には物申さないというポリシーをレビューにも持ち込む形だ。意図的に形骸化させているといえるだろう。

両方ともレビューの価値をかなり下げている。レビューしてもらう立場の人(レビューイ)にとっては「何のためのレビューなんだ」と感じられてしまう。期待されていない指摘をする(個人攻撃のためのときもある)、(結果として)攻撃してしまわないように無難な指摘しかしない、そのようなレビューを再考し、今一度、たくさんのメンバの時間を拘束するレビューが実施の価値を持つためには何をしたらよいかディスカッションする場をいただいた。当日はそのほかにも典型的な例を挙げる予定だ。ぜひ考えてみたい、ウチにもこんなのがある等、気になった方にはぜひご参加いただき、ディスカッション、意見交換したい。

2010/9/3(金) 19:00~ 大阪梅田、S-Openミニホットセッションとして開催される。詳細な案内はここから。参加申込みはここから。

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