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太宰治が恩師・井伏鱒二夫妻に宛てた結婚への誓約書

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1938年、太宰治が美知子夫人との結婚に際して、結婚を仲介した恩師・井伏鱒二夫妻に宛てた、結婚生活への努力を誓う“誓約書”が日本経済新聞に掲載されています。

「結婚は努力」…太宰治、井伏鱒二夫妻に手紙12通

新聞記事では手紙の画像がありますが、文章はテキスト化されていません。そこで文章を書き起こしてみました。

---(以下、引用)---

井伏様、御一家様へ。手記。

このたび石原氏と約婚するに当り、一礼申し上げます。私は、私自身を、家庭的の男と思ってゐます。よい意味でも、悪い意味でも、私は放浪に堪へられません。誇ってゐるのでは、ございませぬ。ただ、私の迂愚な、交際下手の性格が、宿命として、それを決定して居るやうに思ひます。小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生といふものを知りました。結婚といふものの本義を知りました。結婚は、家族は、努力であると思ひます。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかへしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。以上は、平凡の言葉でございますが、私が、こののち、どんな人の前でも、はっきり言へることでございますし、また、神様のまへでも、少しの含羞もなしに誓言できます。何卒、御信頼下さい。

昭和十三年十月二十四日  津島修治

---(以上、引用)----

この手紙が書かれた前後の状況を理解すると、この手紙はより深く理解できると思います。

まず「津島 修治」は太宰治の本名です。

この前年の1937年、太宰治は内縁の妻と心中未遂し、離れました。(ちなみに太宰治は東京大学在学中の1930年にも女性と心中を試み、この時は相手の女性は死亡しています)

1938年の結婚後、しばらくは平穏な生活を送り、「走れメロス」(1940年)、「新ハムレット」(1941年)、「津軽」(1944年)、「ヴィヨンの妻」(1947年)、「斜陽」(1947年)、「人間失格」(1948年)などの名作を生み出します。

そして1948年、愛人と玉川上水で入水自殺し世を去りました。執筆中の「グッド・バイ」は未完の遺作になりました。(ちなみに「グッド・バイ」は、太宰治の中では珍しい、ユーモアがある作品で、私は好きでした)

 

Wikipedia「太宰治」によると、1998年5月23日に遺族らが公開した遺書では、死の理由について「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と説明しています。

太宰治は、死の直前の1947年から1948年にかけては、代表作とも言える名作をいくつも生み出しています。太宰治の代表的な肖像写真は1948年2月に撮影されたもの。その心中は察するばかりしかありません。

 

太宰治の人生とあわせて、1938年に書かれたこの文章を拝読すると、氏のとても細やかで繊細な心を感じるとともに、内面の苦しみや葛藤も感じざるを得ません。
 

 

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