「番長と遊ぼう!」 あの夏の思い出
ばんちょ~の御指示ということで、あの夏の思い出を書きます。
私にとって、「あの」はともかく、思い出の夏とは、田舎ですごす夏休みを指します。
私の母方の実家が東海地方の田舎にあり、夏休みが始まると小学校に上がる前から中学に上がるまでの7~8年間は、私は一人で母方に実家で過ごしたものです。
今からウン十年前です。私の家から母方の実家まで新幹線を使っても、片道6時間ほど掛かりました。
場合によっては、新幹線を使わず東海道線をそのまま乗って行きましたので、8時間以上掛かったこともあります。
私にとって母方の実家は別世界でした。
私の家そのものも田舎なのですが、レベルが違います。
母方の実家が里山の上の方にあり、目の前には広大な田んぼが広がります。
夜ともなれば明かりが全くない世界です。
静けさが音として耳に伝わるような世界です。
遠くに単線のディーゼル機関車の明かりがたまに見えるぐらいで、近くに有る数軒の家を除けば、人はほとんど通りません。
里山の畦道を抜けて、蛙を踏まないようにゆっくり降りてゆくと、「よろずや」が1件ありました。よろずやとは良く言ったもので本当に何でもありました。おでんからノート、鉛筆、食材、タコ糸、鍬、種、場合によってはお酒もその場でストーブにあたりながら、椅子に座って飲めました。
感覚的には、スーパー+ホームセンター+コンビニ+スナックが小さな1階の8畳ほどの場所で再現されていました。
防火水槽で釣りをしたり、自作の凧を竹から作って見えなくなるまで飛ばしたり(もちろん回収はできません。飛ばしたらそれっきりです。)、里山の探検をしたりして遊びました。
私の仕事は、風呂焚きです。毎日薪で風呂を焚きます。鉈で薪を割り、くべて火を点けて、夏の暑い中、汗をだらだら流しながら風呂焚きの番をしました。暇があると、図鑑を読みました、暗記できるほと読みましたので、今でもある程度覚えているほどです。
母方の叔父と叔母は私にとっての夏休みの間の両親とも言える人です。心から私を愛してくれました。祖母はやさしさを祖父は和算と人の生き方を教えてくれました。
母方の実家には、2人の従兄弟がいて、私より2つ年上の女性と、一つ年下の女性がいました。夏休みの間は、一緒に遊んだり、勉強したり、絶えず一緒に居てくれました。
当時は、男女の差などありません。一緒に何でもやりました。女の子の遊びも男の子の遊びもみんな一緒に遊びます。兄弟以上に友達以上に大切な大切な女性達です。
夏休みの45日間で母方の実家に居られるのは、大体40日間あまりです。
楽しい時間はものすごい早さで過ぎて行き、やがて終わりを告げます。
私は今でも鮮明に覚えています。
私が帰りの電車に乗り込む時、必ず、従兄弟達は見送りをしてくれました。
絶対に泣かずにやさしい笑顔の従兄弟達、私は、そんな彼女達を見て必ず泣いていました。『また来年必ず来るよ。』そんな思いを誓いながら・・・
そして、何時しか私は、母方の実家に行かなくなりました。
勉強とか、アルバイトとか、クラブとかいろいろの理由がありましたが私は中学になり、高校に行くようになって、夏休みは元より、短期間でも母方の実家には行かなくなりました。
社会人になり、その後いろいろありましたがもう行かなくなって数十年になります。
理由は、母方の実家は、私にとって、叔父、叔母、祖母、祖父、従兄弟達、田舎の自然、よろずや、田んぼの蛙、見えなくなるまで飛ばした凧・・・そのすべてが宝石のように輝いているからです。
母から聞かされて、田んぼは住宅地となり、畦道は舗装され、よろずやはコンビニになったと聞きました。
もうどこにもあの日の思い出の場所は存在しないのです。
私は、私の宝石である、夏休みの思い出を、どうしても上書きしたくなかったのです。
勝手な思いですが、私にとっては、それほど大切な、何にも代えがたいそんな場所でした。
たまに叔父叔母が私の母をたずねて、私の家にいらっしゃいます。相変わらずの御二人に心の中で毎回感謝しています。
そして、あの日の従兄弟達にも心からの感謝を。
夏の暑い日の太陽を見る時、私はそっとあの夏の日に思いを寄せるのです。
この文章をかつての私を支えてくれた、叔父叔母祖母祖父そして従兄弟達に捧げます。
今日はここまで、またいつか御会いしましょう。