私がシリコンバレーに来た顛末―サムライ・ウルフへの軌跡
「なぜそんなに苦労してまでシリコンバレーに移住したのですか?」とよく聞かれます。短くは「そこにシリコンバレーがあったから」としか答えようがない。シリコンバレーに移住してから20年が経とうとしています。どこの企業にもいる普通の技術者だった私がなぜ裸一貫でシリコンバレーに渡ることになったか?このシリーズは、その物語です。まずは、モラトリアム的な気持ちで入った大学院から企業に就職したところからお話を始めましょう。
私はもともと研究者だった。大学では物理化学を専攻しましたが、特にその学科にこだわりがあったわけではない。修士課程の時に大変お世話になった先輩からこんなことを言われた。「研究を極めて学究の徒にならないのだったら、早く企業に就職して『ものづくり』に関わりなさい。」このアドバイスがとりあえずの人生航路に指針となる。大学に募集が来ていた企業の中から私は小西六写真工業を選んだ。写真が趣味だったこととピッカリコニカというカメラの宣伝をテレビで見ていたから、という単純な理由だ。役員の面接で私はこんなことを言った。「企業に入るからには、モノ作りの現場に行きたい。だから研究所ではなく製造現場で働きたい。」後で聞いた話だが、その時面接した技術担当役員は、「技術系の学生はみんな研究所を希望するのに、この学生は見上げた心構えだ」と言って、涙して喜んだそうだ。私は先輩の受け売りでそう発言したのだが、どうやら企業人の心に刺さったらしい。こうして簡単に就職できた。今の就職難での学生の努力の様子をニュースで見ると申し訳ない気持ちになる。
さくらカラー(後にコニカカラーに名前が変わり、箱もブルーになった。)
さて、実は私は製造現場に配属にはならなかった。ただ、現場にとても近い研究所だ。小西六の主力商品であったカラーネガ感材の開発研究を担当する感材技術研究所である。感技研と社内で呼ばれていたこの部署は、社内でも陽の当たる有力部署だったらしい。どの企業でもそうだが、主力商品を扱っている部門は稼ぎが大きいので態度も大きい。後に、私は感技研の効率化(すなわち人減らしとITによるシステム化)とそれにより捻出した予算を将来の製品のための基礎開発部門に回すことを提案して物議をかもしだすことになるが、入社早々は写真技術の真髄に触れ、写真フィルムの開発や製造現場を経験することが楽しくて仕方なかった。大きい事業だけあって関連部署も多く、学歴に関係なく優秀な技術者や実験助手がたくさんいた。世界的に数社しかできない、写真フィルムの生産に関わっている社員にはその誇りがみなぎっていた。大学の研究生活を棄てて企業人となった私にとっては幸先のいいスタートだったのではないか。私は毎日が楽しくて仕方なかった。
特に、入社後すぐに参加した現場実習は今でも強烈に記憶に残っている。それは写真フィルムの工場実習。写真は感光材料だ。当然、生産現場はほぼ真っ暗。読者には本当の「真っ暗闇」を想像してもらって構わない。それくらい暗い。その暗闇のなかで、蛍光塗料よりももっと暗い特殊な懐中電灯を頼りに、釜に用意された塗布液を検査したり、巨大な釜を洗浄したりする。それを明るい外と同じ素早さで作業しなくてはならない。塗布液を調整する釜の部屋は30度を越え、作業員は汗びっしょりになる。普通の人には想像もつかない世界がそこにある。
カラーフィルムは14層の感光層や分離層などがTACフィルムと呼ばれるフィルムベースの上に塗られていた。銀を主原料とする感光材料とカラー画像(ある種の色素)の元となる有機化合物などが水に溶けたゼラチンに分散されており、それを一気にフィルムに塗布する。この塗布液は工場の建物の上の階に並んでいる巨大な釜で調整されることは、上で述べた通りだ。塗布は、4-6層ほどを同時に行う。層の間で液同士が溶け合う前にフィルム上に塗布して乾燥してしまうという離れ業だ。それを赤、緑、青の感光層群に分けて3回塗布する。これらの塗布は全自動だ。塗布されたフィルムは巨大なローラーの間を動いていくのだが、乾燥のための温風が無数の穴から噴き出ており、それによりフィルムは宙に浮いており、両面ともローラーに触れないようになっている。乾燥が終わったフィルムは巻き取られ、光の入らない巨大な容器に入れられ、別の工場に運ばれる。そこで縦に裁断され、パトローネと呼ばれる光の入らない丸い筒にフィルムが装填される。これが、いわゆるカラーフィルムとして写真店に売られるわけだ。
私は、この工場で3カ月実習した。工場は窓のない10階建てくらいの建物なので、外からは巨大な箱に見える。24時間稼働しており、勤務は三交代だ。確か、早朝から夕方まで、夕方から翌朝まで、それに昼から夜中までの3シフトだったと思う。三交代勤務は日勤の従業員より給料がよかったので(50%くらいよかったのではなかろうか)、現場の作業員は結構元気で明るい人が多かった。私は、塗布液の準備をするグループのひとつに配属された。それぞれのグループは「組」と呼ばれており、その道何十年という熟練の「組長」がグループを仕切っていた。組長を始めとして現場の人たちは、私が感技研からの実習生ということで優しくしてくれたが、一方で大学出の技術者という訳で、「お手並み拝見」という雰囲気が痛いほど伝わってきた。まずは、真っ暗闇の中で動けるようにならなくてはいけない。ただ、高校時代は写真部にいたので暗室は慣れていた。これは合格だ。暗闇で作業するにはお互いの信頼が必要なので、不思議な連帯感がすぐにできたように思う。
作業の待ち時間には、真っ暗なところで、同世代の作業員とたわいないことを話したりした。ひとりは趣味がフライフィッシングだという。私はその頃フライフィッシングを知らなかった。どんなものか説明をしてくれたが、「随分ハイカラな趣味なんだな」と印象に残ったことを覚えている。自分の持っていた工場労働者へのイメージ―何となく地味で暗い―が覆されたような気がした。所詮、皆同じ人間だ、とその時思った。別の年上の作業員と仲良くなった。趣味はゴルフだと言う。私は、たまに練習場で球を打つくらいだったが、ゴルフの話に花が咲いた。私の実習の終わりの記念に、彼は私にパターをくれた。これは今でも私の宝物のひとつだ。
現場の社員旅行はすごかった。幹事の準備の周到さは修学旅行以上だ。その時は大島観光だった。バスを3台仕立て、工場から出発し、横浜の港に向かう。まず、積み込まれるおつまみと酒の段ボールの多さに圧倒された。それに各人が思い思いのつまみを持ってきている。バスが工場の門をくぐったとたんに「宴会」の開始だ。いきなりビールを勧められる。私は飲めません、と断り続けたが最後は根負けした。隣の中年の人からイナゴの佃煮を勧められた時は参った。躊躇していると、「お前は俺の酒を飲んだろう?俺のつまみは食えない、ていうのか?」私は意を決してひとつ口に入れた。カシャ、カシャ。川エビのような感触。意外に美味しかった。あのおじさんは今頃どうしているだろう?
バスが横浜に着いた頃にはみんなすっかり酔っぱらっていた。それからが地獄だった。大島に向けて乗船した船は小型の高速船だった。ご存じにように高速船は揺れる。酒酔いと船酔いが重なって、ビニール袋片手に七転八倒。あれほど苦しい船旅は後にも先にもあの時だけだ。目的地の大島でのことはまったく覚えていない。
こうして、工場実習は終わった。
この時の工場実習は、私の社会人としてのバックボーンにひとつになっている。「ものづくり」というものが少しわかったような気がする。後に私は経営コンサルタントになったわけだが、虚業と言われる世界で生きていく中でも常に地に足をつけられたと思うのは、この実体験のおかげだと思っている。イノベーションに関わる時、「ものづくり」で真剣勝負したことのない人には絶対に負けない自負がある。日本企業が今まで強かった多くの分野では、「ものづくり」だけではは勝てず、ソフトウェア・サービスと「もの」が融合しないと顧客価値を認めてもらえない時代が来ている。しかし、「ものづくり」に日夜努力して成功体験を積んできた人たちは頑固だ。彼らの意識を変えてもらうには、私のように「ものづくり」の心に少しでも触れた人間が説得に当たる役割があると思う。あれだけの技術の集積で作られていた写真フィルムの事業がデジタル技術の発達で跡形もなく消えてしまった。イノベーションの破壊力は時としてすさまじい。ものづくりの現場に没入していると、その足音が聞こえないのだ。あのまっ暗闇の巨大工場を回していくことは大変なことだ。だからこそ、一所懸命に仕事していると外からの危険には気がつかないものだ。私は、イノベーションの破壊力を一部始終見ることになったのだが、その原点は、あの工場実習にある。
<続く>