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シリコンバレーのサムライ・ウルフが、イノベーションについてつぶやきます。(時々吠えることもあります。)

子供たちに残すべき教育とは

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個人個人の基本力(IQ+EQ+価値観)は中学までの教育で終わっている。(教育の源泉が、学校、家庭、社会、仲間、などのどこかは分からないが。)大学受験の壁を越えるのも、大学入学後遊びまくったあと再成長するのも、どうやら中学ぐらいに備わった自力が源泉のような気がする。

だから、大学の受験そのものの内容は文科省に下手にいじって欲しくない。公明正大な一律の試験では、答えがはっきりわかっている試験にせざるを得ない。その仕組みで「創造力」を客観的に測るのは無理だ。試験という仕組みを維持しながら、「創造力」を気にする選考をするとどっちつかずとなり、かつての「ゆとり教育」の二の舞になってしまうのは周知の事実だ。

一方、アメリカの私立大学は、高校の成績、書類審査と推薦状で審査はブラックボックスだ。公明正大からは程遠い。大学が入学する学生のポートフォリオを組むことができる。多様な分布が可能なので、たまたま創造力のある学生が混ざることも可能だ。
ただ、日本では誤解があるかもしれないが、アメリカは書類審査だから楽かというとそうではない。高校4年間の成績が大きく効くので、4年間の詰め込み教育の間じゅう息が抜けない。

私は技術系の受験世代だ。確かに受験により余計な時間を使ったし2年間の修士課程という余計な時間を過ごしたので、アメリカの連中を見ていると羨ましい気持ちはある。ただ、日本での大学受験に関しては、9科目あったのでかなり広い範囲のリベラルアーツを勉強せざるを得ず、それが後のキャリアやアメリカでの生活で役に立った。最近多い2−3科目の受験では、よほどの読書家でない限りどうにもならないような気がする。

伊東乾氏の記事(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53032?display=b)にあるように、微積分を忌避するようではそもそもの発想を理解できないことになる。今、微積分の試験を受けたら落第点だろうが、一度頭を使っておけば、根底の理屈は理解できる。微積分のコンセプトを知らずして経済は語れないだろう。

同様に、フランス革命やマルクス主義、中国の歴史などを知らなければ、技術者と言えども国際社会では会話にも入れないだろう。イスラムとユダヤの歴史に関して教科書程度の知識があれば、技術系でも何とか世界のことが理解できる。

なるべく多くの科目の一律の試験を公平に行うか、高校の成績を元に不透明な選考により選抜する学生の分布を恣意的に操作するか、それぞれの得失を議論すべきではなかろうか。どっちつかずの浅はかな中庸は、子供たちを長期的に不幸にしてしまうように思う。

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