シリコンバレーから「始めまして」
校條と書いて「めんじょう」と読みます。よく聞かれるので先にお答えしておきますが、父は岐阜県多治見市の出身で、その地域ではこの名前はめずらしくありません。ただし、多治見では「毛受」と書くめんじょうの方が圧倒的に多数派だそうです。私自身は、東京で生まれた東京移民二世ということになります。
20年ほど前にアメリカのシリコンバレーに移住しました。よく「なぜ移住したの?」と聞かれるのですが、逆に「では、あなたはなぜ日本に留まっているの?」という質問と同じくらい重いものですので、一言では難しい。それは追々語ることにしましょう。
私がどんな生活かと言いますと、シリコンバレー7割、日本3割くらいでしょうか。年10回日本に来ます。シリコンバレーでは、ベンチャー企業をインキュベーションしています。インキュベーションと言っても場所貸しではなく、私の会社(www.nsv.com)に関わっている若者と一緒に事業を考えて一緒に立ちあげるハンズオンの活動です。日本では、逆に超大企業に未来事業ビジョンを提供するコンサルティングを進めています。
私はもともと化学系エンジニアで、小西六写真工業(現コニカミノルタ)という写真フィルムのメーカーに1978年に入社し、カラー写真フィルムの開発を担当していました。若い方は覚えてないかもしれませんが、製品は当時「さくらカラー」(後にコニカカラーに改称)という名前でした。テレビでは相当宣伝していたのですよ。特に、萩本欣一の「4枚多くて値段は同じ!」という宣伝は一世を風靡しました。
小西六は老舗でしたが、富士フィルムに市場シェアで圧倒されていましたので、エンジニアとして日夜開発に励み、「いつかはシェアを抜いてやるぞ」という気概がありました。カラーネガフィルムの開発は、当時社内で一番日の当たる職場でした。他の例では、自動車会社ならエンジンの開発、電話会社なら交換機の開発、コンピュータ会社ならメインフレームの開発、といったところでしょうか。
そして、私にとって大きな転機のきっかけが来ます。入社3年目の1981年に、ソニーが世界で初めての電子カメラ(フィルムがいらない)「マビカ」を発表したのです。社内は最初は大騒ぎでしたが、サンプル写真を入手したところ、大方「こんなものに写真が負けるわけがない」との反応。私は、200年近い歴史のある技術とたった今生まれた技術を比較しても仕方ないと思って腑に落ちなかった。そんな時、NHK技研の著名な研究者の講演会でデジタルの話を聞き衝撃を受けました。横軸に時間、縦軸に対数をとるとデジタル技術の性能向上は直線になる、というのです。これは今風に言えばムーアの法則(http://ja.wikipedia.org/wiki/ムーアの法則)と同様です。何故衝撃を受けたかというと、デジタル技術による電子カメラの画像はいつかは写真フィルムの品質を追い抜く可能性を示唆しているからです。それから、自己流ですがいろいろ計算し、ついに、30年後にデジタル技術が写真フィルムの技術を追い抜くと予測。つまり、自分が一生をかけようと思っていた写真産業が新しい技術によって根こそぎ置き換えられることを自らに問うたわけです。これが、その後のキャリアを大きく転換するきっかけとなりました。
その後、小西六の社内での新材料研究グループの創設、液晶ディスプレーの社内ベンチャーの立ち上げ参画、MIT留学、ボストン・コンサルティング・グループへの転職、そしてデジタル産業のメッカ、シリコンバレーへの移住、と続きます。このキャリアの転変を通じて、破壊的イノベーションの目に見えない潜伏期、守る側の現実否定、責める側の圧倒的な破壊力、そして新たな秩序の形成、とイノベーションによる産業の交代を一部始終経験しました。こんな経験をした人は多くないでしょう。イノベーションについて、私なりの考えをこれから書き綴っていこうと思います。