「嫌われる勇気」はSNS時代にこそ必要
ちょっと前に話題になっていた本「嫌われる勇気」をやっと読み終わりました。
フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称される、アルフレッド・アドラーの思想を、悩める青年と哲人の会話形式で展開していく本作。大変読みやすいんですが、本を買った直後に出産し、子育てに追われながら毎晩ちょこちょこ読み、やっと読み終わった次第です。
アドラーの心理学に触れたのは初めてでしたが、彼の主張は、過去のトラウマを否定し、人は個々にとっての善である目的に従って行動しているという「目的論」であり、本の中に何度も出てきますが、「全ての悩みは対人関係の悩みである」と言い切っています。
最初は、著書の中の青年と同様、「そんなわけないよ」と思うのですが、読み進めていくと、確かに、人間の悩みというのは他者がいて初めて生まれるものだということに気づきます。
アドラーの教えに従って、劣等感は自分の主観であることを認め、他者の問題と自分の問題を切り離して考え、過去の一切の出来事も自分に影響を及ぼさない、と考えれば、この世界というのはかなりシンプルになります。すごく乱暴に言ってしまうと、自分が何をどう思おうが自分の自由であるし、他者が何をどう思おうとそれは他者の考えであり、自分の問題ではない、ということだと私は理解しました。
シンプルな考えですが、私たちには誰かに承認されたい、という「承認欲求」があるし、ついつい人と比べてしまう習性があるので、実践するのはかなりなチャレンジです。タイトルの「嫌われる勇気」というのも、人に好かれよう、良く思われよう、とすることをやめ、自分自身の人生を生きろということを言っています。
過激といえば過激。
でも、このアドラーの考えは、今のSNSが発展した時代にこそ、力を持ってくる考え方ではないかと思います。
毎日のようにSNSで目にする他人のリア充っぷりや、自分の投稿に対して無数に書きこまれる”悪意のない”コメントたち。SNS疲れしてしまう人が多いのは、それだけ、常に他人と比べたり、他者からの評価を受けたりしていることによるものですよね。
他人の投稿を見たり、書きこまれたコメントを読んだりした時に、心に「ザワザワ」とさざ波が立ったことのない人はいないでしょう。
私事ですが、子供ができてからというもの、「子育ては1歳までは母がするべき」「子供ができればかわいくて仕事する気はなくなるはず」「早くに預けたら可哀そう」など、全く悪意のない他者のコメントに、心が揺れたり、反発したり、悩んだりしていましたが、他人がどう思おうと、それらは彼らの自由であり、もう他人の価値観で悩むのはやめました。
私はSNSは有効なこれからも使い続けていくつもりですが、対人関係で心がざわついた時には深呼吸し、このアドラーの教えを思い出すようにしています。
「人生いろいろ、男もいろいろ、女もいろいろ。これは私の問題でなく、彼(彼女)の問題。」