情報ニーズについて補足
ユーザーの情報ニーズについて、前回書きましたが、その関連です。他社のサービスで、検索履歴や購買履歴を分析し、傾向値をとり、それを加味して、検索結果表示や類似サービスのレコメンデイションを行うものがあります。
便利なサービスだと思います。しかし、危険な一面もあるのではないかと懸念します。
アンコンシャスな情報ニーズが膨大にあり、それと比すと小さなコンシャスな情報ニーズがあるというのが、人間の脳の中身だろうと思います。そのコンシャスな情報ニーズのうち、非常に限定的であると思われる過去の検索結果をとり、有意と思われる傾向値を把握し、検索結果に反映するので、ユーザー個人の非常に限定的な特徴を先鋭化させる結果になるような気がするのです。
例えば、アダルトサイト検索にご造詣の深い方は、帽子というキーワードを入力すると、帽子をかぶったシドケナイ女性の情報が、靴下と入れると靴下をはいたシドケナイ女性の情報、F1と入れるとシドケナイレースクイーンの情報が表示される…ことになりかねない?と思うわけです。(シドケナイという単語を初めて文章で使ったのですが、語感が凄いっすね。ちなみに、「し」を「あ」に変えると、「あどけない」になって、全然違う意味になるのは、日本語の難しさですねえ…と全然違うところで感心しました)
以前、僕は、経営学の専門書とスラムダンクの最終刊を書籍ECサイトで注文したところ、次回に推薦された本は「スラムダンクの経営学」でした。(勿論、興味ゼロ)
勿論、上述例は、かなり極端なので、通常は役に立つのかもしれません。
申し上げたいのは、人間の知的活動は、未知の領域の知識を、蓄積した様々な情報と複雑な結びつけを行い、発展していく(海馬の活動ですね)ものだということです。前述のようなサービスへの依存をすると、この海馬の働きを鈍化させていくということになりはしないか…と思うのです。
新聞の凄いところは、見開きで、色々な事象(能動的には、取得しようとしない情報カテゴリーであっても)に目が留まり、全く新しい思索・思考を生み出すところではないかと思います。統計的手法で、認識された傾向値を反映させることは、それ以外のその個人の興味特性を無視する上で成立するので、こういったサービスを慢性的に利用すると、非常に知的広がりのない人間を創り出しそうな気がするのです。
杞憂であれば、いいのですが、自分の子供たちを見ていて、ある領域に関しては詳しいが、その他に関しては、幼児並みの知識であることを感じるところもあり、非常に懸念するわけです。歪んだ知識体系を有することは、「自分らしさ」とか「個性」ではなく、単に常識の欠如と思うものですから…