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“軽自動車1台分の費用”でヨットを所有して港や島を旅できる、ってホント?

三宅島に寄港したときの話

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三宅島は、三浦半島からほぼ70海里南にある伊豆諸島の島です。三浦半島南端と八丈島の中間地点になります。2000年の噴火によって「全島避難」という措置がとられ、島で生活していた人のすべてが長期間にわたる避難生活を強いられています。その全島避難が解除された2005年に、私はヨットで三宅島を訪れました。PCUSER(の前身のpcupdate)にそのときのことを少しだけ紹介していますが、きょうは、そこで触れることができなかったお話をしましょう。

三宅島の北にある「神着」地区は古くから開かれた集落で、旧所名跡が数多く残されています。その、神着の集落に三宅丹後織の工房があります。三宅島に伝わる工芸技術ということですが、いろいろと説明をしてくれた奥さんが、その技術を受け継ぐ最後の職人と聞きました。

奥さんのお母さんも三宅丹後織の伝承者として広く知られていたそうですが、避難先の都営住宅で亡くなられました。島にいるときは持病もなく元気だったお母さんは、避難先の都営住宅に移り住んでから、体をこわし、だんだんと衰弱してしまったそうです。同じように、避難前は元気だったのに、全島避難の5年間で体を弱らせて亡くなられた高齢者は少なくないと聞きます。

「三宅島では、みんな、窓や玄関を開け放して生活しているけど、都営住宅では逆に全部締め切った生活でね。閉じこめられた生活を続けているうちに体が弱って、ちょっとしたことが命取りになったのかもしれないね」と奥さんは私に話してくれました。

その工房には織機が据え付けてあって、白無垢の生地が途中まで仕上がっていました。全島避難の直前までお母さんが織っていた生地で、中断したままの状態でおいてあるといいます。

「続きを織って完成させないのですか」
「白い生地なので、時間が経つとまゆの色が変わって境目ができるし、私の技術は母にまだまだ追いついていないので、同じ1枚の生地にはできないのよ。だから、この生地は永遠に未完成だね」
「その境目が全島避難の5年間を記録として残してくれるかもしれませんよ」
「あー、そうかなー、そうかもしれないね」

工房を辞するとき、また訪れるので、そのときに完成した生地を見せてください、と約束を交わしました。しかし、申し訳ないことにそれから6年たった今でも私は約束を果たせていません(2010年の秋に三宅島を訪れて工房の前までいきましたが、ちょうど奥さんは外出をするところで、声をかけることもできませんでした)。

神着の集落を離れて、阿古の集落を歩きます。ここは、昭和58年の大噴火で阿古の集落は溶岩流に飲み込まれました。三宅島では、集落を飲み込んだ溶岩と溶岩で焼かれた学校の校舎などを、自然災害の記録としてそのまま保存しています。

その溶岩の周りには旧阿古集落がわずかに残っています。その小道を歩いていたら、前からきたおばあさんに話しかけられました。三宅島の人々(に限らず伊豆諸島に人々)は、こちらが挨拶する前に気軽に話しかけてくれます。その91歳というおばあさんは、これからお墓の掃除にいくといいました。

「ご苦労さまです。ご主人も寂しくないでしょうね」
「いや、息子の墓だ。まだ70なのに東京で死んでしまった」

何もいえなくなった私は、ただ頭を下げてその場を去りました。そのおばあさんの潤んで赤く充血した両目はいまでも忘れることができません。
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