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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

憲法改正デマの話(8)敗戦が「倫理」と「公益」への信頼に与えた影響とは

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 社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。本業とは何の関係もありませんがこのところ憲法改正問題について思うところを書いています。

 今回は非常に抽象的な話から始めます。まずはこの図からご覧ください。



 「人の集まり」に対しては、何らかの統制が必要です(図中のAのライン)。たとえば「車は道路の左側を走りましょう」というようなルールもそうした統制の一種。そうした統制がなければ社会は成り立ちません。逆に、統制が働くことで、「ただの人の集まり」は「社会」になります
 この統制を行う力を「統制力」と呼んでおきます。そのかなりの部分は行政の役割です(すべてではありませんが)。

 一方、統制を行うためには大義名分が必要です(図中のBのライン)。「大義名分」にもおおまかに倫理、公益、権利の3種類あります。

 「倫理」というのは社会的に決められるもので、基本的には「変わりません」。昨日は一夫一婦制だったのに明日からは一夫多婦制になって、誰も異義を唱えない、なんてことはありえないわけです。「倫理」が変わるには通常、長い時間がかかります(たとえば今では同性の結婚を認める国もありますが、まだ少数派ですね。日本でも、性同一性障害による性別変更はあっても同性結婚までは認めていませんし)。

 「倫理」の源泉は歴史的には「慣習」であり、それが「神の教え」に転化すると宗教になります。「神」の代わりに「仏」や「天命」の場合もあります。
 「倫理」をもう少し定義っぽく言うと、「社会的に決まっていて、基本的に変わらない善として多くの人に認知されている行動基準」のこと。「善」であるかどうかという判断には損得を考える余地は無く、損であろうがなんだろうが従うことを社会的に強制されるのが「倫理」です。

 一方、「公益」というのは別な言い方をすると「損得を計算して発せられる、社会的な要求」であり、ここは時と場合によってくるくる変わりえます。たとえば「あなたの家が建っている土地に道路を作るので、立ち退いてください」というのは公益に類する大義名分です。こういうものは道路の計画ルートが変わればなくなってしまうわけで、限定された時と場合にしか成り立ちません。

 最後の「人権」は個人的なもので、「社会の事情」ではなく「個人の意思」によって主張できます。精神の自由、身体の自由、経済活動の自由、あるいは社会権、参政権など、こういうものは個人の権利を守らなければいけないという大義名分として「統制力」の裏付けになります。

 この3種類の大義名分は、原始的な社会では分離されていませんでした。1つの集落で数十人が暮らしているような小さな村ではこの3種が渾然一体になっていて、誰もわざわざ区別して考えることはありません。

 これが、時代が進むに従って徐々に分離するようになります。「倫理」と「公益」が明確に分かれたことを示すひとつの事件が17世紀、1648年のウェストファリア条約です。ヨーロッパにおいて長らく続いた宗教戦争はこの条約で終結し、「神の教え」は地上の権力への干渉を停止し、「主権国家」が「限定された領土」の中でそれぞれの「公益」を追及する体制を取ることがヨーロッパ全体で確認されました。

 そして、「公益」と「人権」が分離するようになったのが17~19世紀にかけてのイギリス、アメリカ、フランスを皮切りとする「市民革命」~「国民国家」成立の流れです。これによって「基本的人権」概念が確立し、「公益」の要求に対して個人が社会的に対抗力を持てるようになりました。

 しかし「個人の権利」がいついかなる時も絶対的に優先されるようでは社会は成り立ちません。「俺は絶対に立ち退かねえぞ!」と、たった一軒の家が頑強に主張するために道路が作れない、というようなことが起こると、立ち退いてもらうための補償金が天井知らずになることでしょう。それでは社会的に公平を欠くことになるため、たとえば日本でも土地収用法という法律があって個人の権利を制限する制度が存在します。

 つまり、「公益」と「人権」はどうしても対立する場合があるため、近代国家では「法律」でその両者をコントロールするようになっているわけです。(ちなみに、「法律」にも狭義の法律から政令・府省令・規則等さまざまなレベルのものがあります)

 そしてその「法律」を作る段階、およびその法律を運用する段階に「国民」が関与できるようにする(図中のE、F)ための手続きがまたいろいろとあります。もちろん「選挙」はその一つ。

 さて、こういう仕組みで現代の国民国家は動いています。これは基本的にどの国も一緒です。あらためて強調しておくと

倫理 (社会的・変わらない)
公益 (社会的・変わる)
人権 (個人的)

 という3層構造です。「倫理」が社会に占める重みは時代が進むに従って減りつつありますが、それでもなくなりはしません。キリスト教、イスラム教圏で多くの場合「変わらないもの」の象徴になるのが「神の教え」です。アメリカ大統領などは、いまだに就任式では聖書に手を置いて宣誓するのが慣例です。

 ・・・・と、ここまでが前置きです。ここから先が今回の本題。


■ポイント1:「心の拠り所」を欲しがる気持ちはどんな人にもある

 まず押さえておくべきなのは、どんな人にも「心の拠り所」を欲しがる気持ちがある、ということです。
 「心の拠り所」というのは、「常に変わらず存在して」自分を守ってくれる、あるいは自分が進む道を教えてくれる、・・・・という「気がする」もののことです。実質は別になくてもいいのですが、「そんな気がする」ことが重要で、そういうものがあると人は精神の安定を保てます。
 「倫理」による統制は、人の心に対してそうした「変わらないもの」の象徴として機能することがあります。そこで働く「倫理」というのは、「変わらないもの」であって、かつ、自分とは別の何かでなければいけません。自分の都合で変えられるのであればそれは「倫理」とは言えないからです。「神の教え」に対して人間から注文をつけられるようであってはそれは「神の教え」にならないわけですね。


■ポイント2:敗戦と左翼思想の流入は「社会的な大義名分」への信頼を破壊した
 日本においては1945年の敗戦とそれに続く被占領によって、大義名分のうち、「社会的な統制」に関わる2つの要素への信頼が破壊されました



 これはいくつかの事情が重なり合って起きたものです。

a)「戦争によって被害を受けた」ことから、国民の間に、悪者を探して断罪したい、という意識が働いたこと(参考→真相はこうだ

b)GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民政局には社会主義・共産主義的政策のシンパが多く、当初彼らが日本の占領政策を主導したため、日本国内で左派勢力が急伸したこと。(参考→民政局公職追放赤狩りマッカーシズム

c)左派勢力(ソ連の支援を受けていた)が日本での政治的影響力を伸ばすために、日本社会の伝統的価値観を否定しようとしたこと(参考→ 原子力論考(58)統制を失った集団には別な統制の網がかかる 原子力論考(59)大衆扇動のための4点セット  )

 なお、「日本社会の伝統的価値観」そのものが「現代という時代に即しているかどうか」という、純粋な社会問題としての議論はこれとは別にありますし、あっていいのですが、それはそれとして、そうした運動の背後に、東西冷戦の前線地帯としての日本の政治をコントロールしようとした国際共産主義運動・ソ連の影があった(→レフチェンコ事件)ことは事実として認識しておくべきです。

 さて、こうした事情があって、「大義名分」の中の「倫理」と「公益」に対して不信感をもった一群の人々がいます。この人々は「公益」というものを、自分の意に反する難行苦行を押しつけようとしてくる口実であるとして忌み嫌います。参考までに、「左派勢力」がバイブルとした「共産党宣言」の一節をご紹介しましょう。

我々は、あらゆる現存する社会制度を暴力的に打倒することによってのみ、我々の目的を達成できることを、ここに公然と宣言する!
万国の労働者よ、団結せよ!

 とにかく「社会制度」が嫌いなんですね。ここでいう「社会制度」がつまり「倫理」と「公益」です。

 なぜ「社会制度」が嫌いなのかといえば・・・という考察もできるのですが、長くなるので省略(既にうんざりするぐらい長くなってますけど(^^ゞ)

 そのため、彼らにとっては「人権」のみで社会を統制できることが理想でした。




 しかし、社会を実際に維持運営しようとするとどうしても「公益」の概念が必要です。現行の日本国憲法にある「公共の福祉」という文言は本来それを表しているはずです。ところが、「公共の福祉」を「公益」であると認めたくない人々がいました。彼らにとっては、日本国憲法の中の「公共の福祉」という文言が邪魔でした。そこで、なんとか「公共の福祉」は「公益」ではない、という理屈をつけようとしたわけです。

 もちろん、一般市民はそんなしちめんどくさいことは考えません。いちいちこういうことを考えようとするのは、学者です。

 「公共の福祉」は「公益」ではない、と主張するために彼らが考え出した理屈が、宮沢俊義という憲法学者の提唱した「一元的内在制約説」という論理です。

 ・・・・つづく

 
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