憲法改正デマの話(6)法律は「力」をコントロールするために作られる
»
社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。
なにしろ専門の憲法学者が「憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない」という主張をしているケースが多いので、えらい先生のいうことは素直に勉強しよう、という姿勢でいるとそう信じてしまうのも無理はありません。
しかし、実際に日本だけでなく各国の憲法に書かれている内容を調べてみると、国民の義務を規定している条項はごく普通に存在するため、何かおかしい、変だぞ? ということに気がつきます。
そこでいったい何が起きているのかを知るために、原点に立ち返って考えましょう。
この場合の原点とは、
たとえば私も右手左手があって多少の筋力をふるうことができます。これをうまく使えば文章が書けたりレザークラフトを作れたりしますが、目をつぶって振り回したらコンクリートの壁に打ち付けて骨折するかもしれませんし、人にぶつかったら怪我をさせてしまうかもしれません。「力」は適切にコントロールすれば有益な仕事ができますが、それがないと有害です。そこで、『力を持つものはコントロールしなければならない』というのが基本原則です。図に書くとこんなふうになります。
「力」は「目標」に「貢献」するように使わなければいけない。
そのために「コントローラー」があると仮定しましょう。コントローラーというのは、目標を「理解」して、その目標に向けて力を「制御」し、実際に貢献できていることを「確認」する、そんな役割です。
「法律」はこの図で言う「理解」「確認」「制御」を明文化します。
たとえば、フランス人権宣言に先立つヴァージニア権利章典の第1条はこういうもの。
これが目標を記述する部分です。そして社会の構成員が全員それを理解し、認めるならば、次のような条項も当然のものとして認められることでしょう。
見てのとおりこれは公権力が逮捕拘禁という「力」をふるうことを「制御」する条項です。
「法律」というものは、これらを明文化することで、異なる文化に属する関係者の間で合意を形成し、紛争を調停するために作られます。
さて、ここまで
ということを書いてきましたが、では、「力」を持っているのは誰なのでしょうか?
■「力」を持っているのは誰か?
イギリスで13世紀に作られた「マグナ・カルタ」はその後の市民革命・立憲主義の起源、欧州最古の憲法とも言われていますが、これを現代の「憲法」の一種と思って読むと非常に違和感があります。
司教や伯やバロンへの挨拶はあっても、「国民」という言葉はありませんね。さらにこのへんを見てみると・・・
「イングランド教会」とか「ロンドン市」という個別の利益集団に対して個別にその権利を保障する内容なんですね。
どうしてこういう文面なのかというと、この文書は「領主の中の大なるもの」であった国王と、教会、都市、諸侯といった個別の利益集団との間で紛争が起きたときに、敗れた国王側がその紛争を調停するために書いた合意書だからです。憲法と言うよりは休戦条約か、あるいはもっとざっくばらんに言えば降伏文書のようなものです。
国王は領主の中では最も強力ではありますが、領主や都市に結束して対抗されたときにはかないません。こういう「一強多弱」の構造の中で「多弱」の側が結束して「一強」の力を制限するために書かれたのが「マグナ・カルタ」です。こうして
わけですが、ここで疑問が湧きます。「力を持つ者」は「国王」だけなのでしょうか?
そうではない、ということが、当のマグナ・カルタの第12条を読むとわかります。
要は「普段は議会の承認がなかったら課税しないけど、国王が捕まって身代金を払わなきゃいけない、みたいな特別な事情があるときは例外にしてよ」という、これは国王側の要求を通したものですね。
考えてもみてください、「身代金」ですよ。当時は国王や領主が戦闘中に敵国につかまって身代金を払って解放される、ということが普通にあった時代です。敵に捕らわれた、というこの上ない「弱い」状態の時には、「国王の力を制限する」なんて言ってる場合じゃないですね。こういう場合は諸侯のほうが力を持っているので「身代金を払うため・・・のものはこの限りではなく」となるわけです。
「力を持つ者を規制するために法律ができる」
という観点で考えればこれは納得がいくことでしょう。
さて、そこで次の疑問です。「国民」は、常に権力からの保護を必要とする「徹底的な弱者」なのでしょうか? もしそれがYESなら、「憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない」という主張も正しいと言えますが、果たしてどうでしょうか?
・・・・つづく
なにしろ専門の憲法学者が「憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない」という主張をしているケースが多いので、えらい先生のいうことは素直に勉強しよう、という姿勢でいるとそう信じてしまうのも無理はありません。
しかし、実際に日本だけでなく各国の憲法に書かれている内容を調べてみると、国民の義務を規定している条項はごく普通に存在するため、何かおかしい、変だぞ? ということに気がつきます。
そこでいったい何が起きているのかを知るために、原点に立ち返って考えましょう。
この場合の原点とは、
『力』はコントロールしなければならないということです。
たとえば私も右手左手があって多少の筋力をふるうことができます。これをうまく使えば文章が書けたりレザークラフトを作れたりしますが、目をつぶって振り回したらコンクリートの壁に打ち付けて骨折するかもしれませんし、人にぶつかったら怪我をさせてしまうかもしれません。「力」は適切にコントロールすれば有益な仕事ができますが、それがないと有害です。そこで、『力を持つものはコントロールしなければならない』というのが基本原則です。図に書くとこんなふうになります。
「力」は「目標」に「貢献」するように使わなければいけない。
そのために「コントローラー」があると仮定しましょう。コントローラーというのは、目標を「理解」して、その目標に向けて力を「制御」し、実際に貢献できていることを「確認」する、そんな役割です。
「法律」はこの図で言う「理解」「確認」「制御」を明文化します。
たとえば、フランス人権宣言に先立つヴァージニア権利章典の第1条はこういうもの。
【ヴァージニア権利章典 第1条】 すべての人は生来ひとしく自由かつ独立しておリ、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は人民が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、人民が子孫からこれをあらかじめ奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安寧(あんねい=世の中が平穏無事なこと)とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である
これが目標を記述する部分です。そして社会の構成員が全員それを理解し、認めるならば、次のような条項も当然のものとして認められることでしょう。
【フランス人権宣言(1789) 第7条】
何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない。
見てのとおりこれは公権力が逮捕拘禁という「力」をふるうことを「制御」する条項です。
「法律」というものは、これらを明文化することで、異なる文化に属する関係者の間で合意を形成し、紛争を調停するために作られます。
さて、ここまで
「力」はコントロールしなければならない
ということを書いてきましたが、では、「力」を持っているのは誰なのでしょうか?
■「力」を持っているのは誰か?
イギリスで13世紀に作られた「マグナ・カルタ」はその後の市民革命・立憲主義の起源、欧州最古の憲法とも言われていますが、これを現代の「憲法」の一種と思って読むと非常に違和感があります。
イングランドの王、アイルランドの主、ノルマンディとアクィティーヌの公、およびアンジューの伯であるジョンは、その大司教、司教、修道院長、伯、バロン(国王から直接に封〔給料〕を受けている者)、裁判官、猟林官、州長官、荘官、役人に対して、また、そのすべての代官および忠誠な臣下に対して、挨拶をする。
司教や伯やバロンへの挨拶はあっても、「国民」という言葉はありませんね。さらにこのへんを見てみると・・・
第1条〔イングランド教会の自由と自由人の自由の確認〕
朕は、イングランド教会が自由であり、その諸権利を完全に享有し、その自由は侵されることがないことを最初に神に誓い、次いで朕および朕の相続人のために、この朕の現在の特許状をもって永久に確認する。
第13条【自由と関税の保有】
ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず、自由と関税とを保有する
「イングランド教会」とか「ロンドン市」という個別の利益集団に対して個別にその権利を保障する内容なんですね。
どうしてこういう文面なのかというと、この文書は「領主の中の大なるもの」であった国王と、教会、都市、諸侯といった個別の利益集団との間で紛争が起きたときに、敗れた国王側がその紛争を調停するために書いた合意書だからです。憲法と言うよりは休戦条約か、あるいはもっとざっくばらんに言えば降伏文書のようなものです。
国王は領主の中では最も強力ではありますが、領主や都市に結束して対抗されたときにはかないません。こういう「一強多弱」の構造の中で「多弱」の側が結束して「一強」の力を制限するために書かれたのが「マグナ・カルタ」です。こうして
「力を持つ者を規制するために法律ができる」
わけですが、ここで疑問が湧きます。「力を持つ者」は「国王」だけなのでしょうか?
そうではない、ということが、当のマグナ・カルタの第12条を読むとわかります。
第12条【一般評議会の同意による課税】
いかなる楯金または援助金も、朕の王国の一般評議会による他は、朕の王国においては課されないものとする。ただし、朕の身代金を支払うため、朕の長男を騎士とするため、または朕の長女をはじめて嫁がせるために課せられるものはこの限りでなく、またこれらのためであっても、合理的な援助金か課されないものとする。ロンドン市からの援助金についても、同様に行なわれるものとする。
要は「普段は議会の承認がなかったら課税しないけど、国王が捕まって身代金を払わなきゃいけない、みたいな特別な事情があるときは例外にしてよ」という、これは国王側の要求を通したものですね。
考えてもみてください、「身代金」ですよ。当時は国王や領主が戦闘中に敵国につかまって身代金を払って解放される、ということが普通にあった時代です。敵に捕らわれた、というこの上ない「弱い」状態の時には、「国王の力を制限する」なんて言ってる場合じゃないですね。こういう場合は諸侯のほうが力を持っているので「身代金を払うため・・・のものはこの限りではなく」となるわけです。
「力を持つ者を規制するために法律ができる」
という観点で考えればこれは納得がいくことでしょう。
さて、そこで次の疑問です。「国民」は、常に権力からの保護を必要とする「徹底的な弱者」なのでしょうか? もしそれがYESなら、「憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない」という主張も正しいと言えますが、果たしてどうでしょうか?
・・・・つづく
SpecialPR