憲法改正デマの話(5)立法・行政・国民の関係についての基本構造
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社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。
どうもこの憲法改正問題は、時期としては1年以上後でしょうけれど、何かと紛糾しそうなので今のうちにある程度書いておくことにしましょう。
前回も書いたとおり、憲法の話を始めると憲法学をかじった人間から痛烈な批判が飛んできますが、私はそもそも憲法学の議論をする気も能力もありません。私の目的はあくまでも「一般市民が憲法改正問題を理解するための手がかりになる補助線を提供すること」です。
その一環として今回は、立法・行政・国民の関係についての基本構造の話を書くことにします。理屈として難しい話はありません。高卒程度の知識があれば分かることだけですのでご心配なく。
まずは前近代社会における統治構造を超簡単に次のようにモデル化してしまいます。
「国民」が「経済・生活に関わる活動」を遂行することで、「健全な社会」が実現されますが、しかし「経済・生活に関わる活動」を個人個人がバラバラにやっていると、利害の衝突や非効率が起こることがあるため、それをコントロールする必要があります。
そのコントロールを行うのが「君主」の役割であり、「君主」が「統治」行為を通じて「国民」の活動をコントロールすることで「健全な社会」が実現します。
(何が「健全」なのかという議論はここではしません)
ところが、全員が狩猟採集をやっているような小さな村レベルならこういう統治構造で間に合いますが、だんだん社会が複雑化してくるとこれでは成り立たなくなってきます。
途中の過程を省略しますと、近代社会においては下記のようになります。ただし煩雑になるのを防ぐため「司法」は省略してあります。
「君主」の存在が「行政府」に代わります。その行政府による「統治」行為は「法律」によってコントロールされるようになります。その法律は立法府が作るものであり、「国民」が「行政府」「立法府」へ何らかの形で関与する権限を得るようになります。
(くどいようですが、「司法」は省略してありますので、三権分立になってねーじゃねーか、とは言わないでくださいな)
さて、ここで問題です。次の主張は正しいでしょうか?
普通の市民感覚の判断だとこれには「そんな馬鹿な」と思うところですが、実は憲法学者には上記の主張が正しい、「国民には憲法を守る義務はない」とする者が多数います。
そ、そんな馬鹿な、と反問すれば、憲法学者はきっと「それが素人さんのよく誤解しているところですが・・・・」と前置きつきで親切に教えてくれることでしょう。
私はそういう憲法学者にはいちいち反論しません。ただ、いくつかの条文を例示しておきます。
ちなみに憲法学者の中にはこれらの条項に対しても、「いや、それも国民の義務を規定したものではない」という理屈を説明してくれる人もいます。興味があったら「憲法 国民の義務 誤解」といったワードでぐぐるといろいろ出てくるので読んでみてください。きっとわけがわからなくなりますが。
あるいは、それらが「国民の義務規定だ」と認める学者でも、引き続き「憲法で国民の義務を規定しているのは世界でも日本国憲法ぐらいのものであって、近代立憲国家とは言えない」と、「だから日本はダメなんだ」という論が続く例もよく見かけます。
なるほど、そうなんですか。ということで、世界各国の憲法を調べてみると・・・
など、実際にはそれほど珍しくもないようですね。
ちなみにアメリカの憲法には現在は国民が普段の生活において直接意識しなければならないような義務規定はありませんが、かつて1920年代には「禁酒法」というものが存在しました(合衆国憲法修正第18条)。なんと、アメリカの憲法はかつて国民に「禁酒」の義務を定めていたのです(厳密に言うと酒の取引の禁止ですが)。
つまり、憲法で「国家の行動」だけでなく「国民の行動」についても縛りをかけている国は現実にいくつもあります。
それはいったいなぜなのか、というと、憲法というのは制定時の国と時代の事情に応じて作られるもので、国と時代の境界を越えた普遍的な「憲法の制定原理」のようなものは実際には存在しないからです。
ここでもう一枚のチャートを出しますと・・・・
要するに「こういう国を作ろうぜ」という大まかなアウトラインを示すのが「憲法」の役割なんですね。
だから、憲法には行政府と立法府に関する規定があるのが普通です。統治行為を成文法によってコントロールする、という統治モデルには行政府と立法府、さらに司法府が不可欠なので、これらの規定は憲法上に書かざるをえないからです。
しかし、それを憲法でどのレベルまで細かく規定するか、また、それ以外の何を憲法で決めるかは国によってさまざまです。たとえばアメリカ合衆国憲法修正第12条では、大統領の選出プロセスについて、「(前略)― 上院議長は、上院及び下院の議員の出席のもとで、すべての認証を開封し、投票を数える。 -(後略)」といった呆れるほど細かい実務規定まで書いてあります。
ただ、それだけなら、「どこまで細かく書くか」というレベルの高低はあっても、「憲法は国家の行動を制約するもの」という範囲に収まります。しかし、憲法はそれだけを規定するものではありません。
「健全な社会」というのがいったいどんな社会なのか、ここには憲法制定時のその国の「価値観」が反映されます。そこでたとえばフランスの場合は「人権宣言」がここに来ます。
「人権宣言」は基本的に「国民の権利」を規定するものなので権利ばかりが目立ちますが、本質的には「これが健全な社会である」という価値観がここに来るものなので、その価値観が禁止条項で表されるときはたとえば
のようなものが憲法に入ることもあるわけです。したがって、ある国において広く認められる「価値観」がある場合、それが「憲法」に「国民の義務」として書かれるのは、なんら不思議なことではないのですよ。
そう考えると、フランスの1791年憲法第1条に「王国は単一にして不可分である」という規定がある理由、フランス人権宣言第12条に「公の武力」条項、第13条に「租税の分担」条項がある理由、フランスでは反逆罪に限って大統領への弾劾が可能な理由、などなどが分かってきます。
アメリカの場合も、禁酒法が憲法修正条項になってしまった背景には、「酒を不道徳なものとして忌避する価値観」がありました。
繰り返しますが、ある社会にとっての基本的な価値観に属するものは「憲法」に書かれるものであり、それが国民の行動を縛る「国民の義務」であるというケースは当然ありうるのです。
長くなったので次回に続きます。次回は、「なぜ『憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない』と主張する憲法学者が多いのか」という疑問について考えます。
・・・・つづく
どうもこの憲法改正問題は、時期としては1年以上後でしょうけれど、何かと紛糾しそうなので今のうちにある程度書いておくことにしましょう。
前回も書いたとおり、憲法の話を始めると憲法学をかじった人間から痛烈な批判が飛んできますが、私はそもそも憲法学の議論をする気も能力もありません。私の目的はあくまでも「一般市民が憲法改正問題を理解するための手がかりになる補助線を提供すること」です。
その一環として今回は、立法・行政・国民の関係についての基本構造の話を書くことにします。理屈として難しい話はありません。高卒程度の知識があれば分かることだけですのでご心配なく。
まずは前近代社会における統治構造を超簡単に次のようにモデル化してしまいます。
「国民」が「経済・生活に関わる活動」を遂行することで、「健全な社会」が実現されますが、しかし「経済・生活に関わる活動」を個人個人がバラバラにやっていると、利害の衝突や非効率が起こることがあるため、それをコントロールする必要があります。
そのコントロールを行うのが「君主」の役割であり、「君主」が「統治」行為を通じて「国民」の活動をコントロールすることで「健全な社会」が実現します。
(何が「健全」なのかという議論はここではしません)
ところが、全員が狩猟採集をやっているような小さな村レベルならこういう統治構造で間に合いますが、だんだん社会が複雑化してくるとこれでは成り立たなくなってきます。
途中の過程を省略しますと、近代社会においては下記のようになります。ただし煩雑になるのを防ぐため「司法」は省略してあります。
「君主」の存在が「行政府」に代わります。その行政府による「統治」行為は「法律」によってコントロールされるようになります。その法律は立法府が作るものであり、「国民」が「行政府」「立法府」へ何らかの形で関与する権限を得るようになります。
(くどいようですが、「司法」は省略してありますので、三権分立になってねーじゃねーか、とは言わないでくださいな)
さて、ここで問題です。次の主張は正しいでしょうか?
「そもそも憲法は国家の行動に制限をかけるものであって、国民には憲法を守る義務はない」
普通の市民感覚の判断だとこれには「そんな馬鹿な」と思うところですが、実は憲法学者には上記の主張が正しい、「国民には憲法を守る義務はない」とする者が多数います。
そ、そんな馬鹿な、と反問すれば、憲法学者はきっと「それが素人さんのよく誤解しているところですが・・・・」と前置きつきで親切に教えてくれることでしょう。
私はそういう憲法学者にはいちいち反論しません。ただ、いくつかの条文を例示しておきます。
【現行日本国憲法】
第26条2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
ちなみに憲法学者の中にはこれらの条項に対しても、「いや、それも国民の義務を規定したものではない」という理屈を説明してくれる人もいます。興味があったら「憲法 国民の義務 誤解」といったワードでぐぐるといろいろ出てくるので読んでみてください。きっとわけがわからなくなりますが。
あるいは、それらが「国民の義務規定だ」と認める学者でも、引き続き「憲法で国民の義務を規定しているのは世界でも日本国憲法ぐらいのものであって、近代立憲国家とは言えない」と、「だから日本はダメなんだ」という論が続く例もよく見かけます。
なるほど、そうなんですか。ということで、世界各国の憲法を調べてみると・・・
【憲法における国民の義務規定のある国】
ドイツ(子供の教育、兵役、所有権の行使と公共の福祉)、
フランス(労働、環境の保全と改良)、
スイス(兵役)、
ロシア(納税、兵役)、
韓国(教育、勤労、納税、国防、国土の利用)
など、実際にはそれほど珍しくもないようですね。
ちなみにアメリカの憲法には現在は国民が普段の生活において直接意識しなければならないような義務規定はありませんが、かつて1920年代には「禁酒法」というものが存在しました(合衆国憲法修正第18条)。なんと、アメリカの憲法はかつて国民に「禁酒」の義務を定めていたのです(厳密に言うと酒の取引の禁止ですが)。
つまり、憲法で「国家の行動」だけでなく「国民の行動」についても縛りをかけている国は現実にいくつもあります。
それはいったいなぜなのか、というと、憲法というのは制定時の国と時代の事情に応じて作られるもので、国と時代の境界を越えた普遍的な「憲法の制定原理」のようなものは実際には存在しないからです。
ここでもう一枚のチャートを出しますと・・・・
要するに「こういう国を作ろうぜ」という大まかなアウトラインを示すのが「憲法」の役割なんですね。
だから、憲法には行政府と立法府に関する規定があるのが普通です。統治行為を成文法によってコントロールする、という統治モデルには行政府と立法府、さらに司法府が不可欠なので、これらの規定は憲法上に書かざるをえないからです。
しかし、それを憲法でどのレベルまで細かく規定するか、また、それ以外の何を憲法で決めるかは国によってさまざまです。たとえばアメリカ合衆国憲法修正第12条では、大統領の選出プロセスについて、「(前略)― 上院議長は、上院及び下院の議員の出席のもとで、すべての認証を開封し、投票を数える。 -(後略)」といった呆れるほど細かい実務規定まで書いてあります。
ただ、それだけなら、「どこまで細かく書くか」というレベルの高低はあっても、「憲法は国家の行動を制約するもの」という範囲に収まります。しかし、憲法はそれだけを規定するものではありません。
「健全な社会」というのがいったいどんな社会なのか、ここには憲法制定時のその国の「価値観」が反映されます。そこでたとえばフランスの場合は「人権宣言」がここに来ます。
「人権宣言」は基本的に「国民の権利」を規定するものなので権利ばかりが目立ちますが、本質的には「これが健全な社会である」という価値観がここに来るものなので、その価値観が禁止条項で表されるときはたとえば
アメリカ合衆国憲法修正第18条 合衆国及びその管轄に服するすべての領域内で、飲用目的でアルコール飲料を製造し、販売ないし輸送し、それを輸入または輸出することは、これにより禁止される
のようなものが憲法に入ることもあるわけです。したがって、ある国において広く認められる「価値観」がある場合、それが「憲法」に「国民の義務」として書かれるのは、なんら不思議なことではないのですよ。
そう考えると、フランスの1791年憲法第1条に「王国は単一にして不可分である」という規定がある理由、フランス人権宣言第12条に「公の武力」条項、第13条に「租税の分担」条項がある理由、フランスでは反逆罪に限って大統領への弾劾が可能な理由、などなどが分かってきます。
アメリカの場合も、禁酒法が憲法修正条項になってしまった背景には、「酒を不道徳なものとして忌避する価値観」がありました。
繰り返しますが、ある社会にとっての基本的な価値観に属するものは「憲法」に書かれるものであり、それが国民の行動を縛る「国民の義務」であるというケースは当然ありうるのです。
長くなったので次回に続きます。次回は、「なぜ『憲法は国民が国家権力を縛るもので、国民の義務を定めるものではない』と主張する憲法学者が多いのか」という疑問について考えます。
・・・・つづく
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