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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

生徒に「考えさせない」学校システム(1)

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久しぶりにこちらのブログを書きます。なんと2ヶ月ぶりなので、誰だお前は、になりそうですが(笑)。

さて、この3週間ほど出張シーズンになってまして、静岡・神戸にそれぞれ2回、名古屋に3回行っておりました。そのたびに新幹線に数時間乗るわけですが、普段と環境が違うのでとりとめもないことを考えてはツイッターにつぶやいたりしています。
 →開米瑞浩のツイッター

それを読み返してみて改めて思ったのがこれ。

http://twitter.com/kaimai_mizuhiro/status/24530719035
言葉というのは、人が自分の理解したことや意図していることを誰かに伝えるために使うものだ。その  誰か  というのは自分自身の場合もあるが。そこでわかるのは、自分自身の理解や意図を持つことが、他者発言の理解にも不可欠だということ。
http://twitter.com/kaimai_mizuhiro/status/24531080462
しかあし。自分の意図を持って何かを行う、選択させ失敗させる、という経験が教育過程の中に組み込まれてないのが問題だよな。

この件についてはいろいろと思うところがあるので、今回だけではとても書ききれません。何回かに分けて書くとして、今回は大学受験時のエピソードを書いておきます。

開米は1986年に大学受験をしています。
もちろん同級生もほとんどがそれぞれの志望先を受験して、受かったり落ちたりしていました。まあ、受験ですから落ちることもありますね。中には8校受けて全部落ちたというクラスメートもいたりして、何と声をかけて良いかわからなかったりしたものです。

と、そこまでは別になんでもないのですが、驚いたのは大学入学後です。
大学にはいると当然別な高校の出身者との付き合いができますが、彼らと話をしているうちに、

  生徒に対して強制的な進路指導をする高校が多いらしい

ということを知りました。たとえば、

  「A大学を受けたかったんだけれど、
   高校の先生がそれを認めてくれずに、受けられなかった」

というような話が至るところで出てくるわけです。

なんだそりゃ? と思いましたね。

認めてくれずに、ったってアンタ、別に高校側にそれを禁ずる強制力はないだろうに、受けたきゃ受ければいいだけでは? と考えたのがひとつ。

もうひとつは、その高校はいったい何の考えと権限があって「生徒が希望する受験を認めない」なんて横暴なことをしているのか? という印象です。

実は、私の出身高校ではあんまりそういう話を聞いたことがなかったのです。
ちょっと無理めの大学を受けたいという生徒がいても、「そこは難しいけれど、どうしても受けたいならガンバレ」というぐらいで、「無理だからやめなさい。認めません」という指導はなかったと思います。

おかげで、受験に失敗する者も多かったとは思います。8校受けて全滅というのは極端にしても、第一志望に受からなかった友達は大勢います。率としてどうなのかはわかりませんが。

「受験を認めない」というような強制的な進路指導をする高校は、そういう、「明らかに無理なところに挑んで失敗することを防ぐのが大人の役目」とでも思っているのでしょうか。
仮にそうだとしたら、これも

  自分の意図を持って何かを行う、選択させ失敗させる、
  という経験が教育過程の中に組み込まれてない

というひとつの事例です。まあ、

「失敗をさせろと言っても、なにも10代の若いうちから、
 人生の岐路を分ける大きな場面で明らかに失敗するであろう
 チャレンジをすることはない。それを放っておくのは
 大人として無責任だ」

という見方もあることでしょう。
しかし、その発想でありとあらゆる「失敗の芽」を摘み続けた結果が、「思考力に乏しい社会人」を大量生産してしまったような気がしてなりません。

これもひとつの「生徒に考えさせない学校システム」の一例です。
そんな学校システムとの摩擦、軋轢、戦いが実は私の今の仕事につながる原体験だったりするので、ぼちぼちそのへんを書いていくことにします。


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