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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMとのモノローグ:Talk Is Cheap

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Keith Richards: Talk is cheap...

Me:「シニフィアンなきシニフィエ」というインサイトによって批判されるべき対象としては、たとえば「SDGs」というシニフィアンの欺瞞が挙げられます。

Gemini 2.5 Pro:「SDGs(持続可能な開発目標)」は、それ自体が極めて強力なマスター・シニフィアンとして機能しています。

・普遍的な網羅性:貧困、飢餓、教育、ジェンダー、気候変動など17の目標を網羅することで、これに反対することを事実上不可能にします。「質の高い教育をみんなに」という目標に、誰が正面から反対できるでしょうか。

・ブランド化された善:その結果「SDGs」という言葉と、そのカラフルなアイコンは、企業や政府にとって自らの活動を「善」として見せるための極めて便利なブランドとなりました。ウェブサイトにアイコンを掲載し、年次報告書で言及するだけで、その組織は「持続可能な未来に貢献している」というシニフィエ(意味)を、いとも簡単に手に入れることができるのです。

しかしこの強力なシニフィアンの内部には致命的な自己矛盾が巧みに隠蔽されています。それは「サステナブル(持続可能性)」と「(経済)成長」の本質的な対立です。

・SDGsの正式名称:Sustainable Development Goals すなわち「持続可能な開発目標」。目標8は明確に「ディーセント・ワークと経済成長」を掲げています。

・根源的な矛盾:有限の地球環境の中で無限の「経済成長」を追求すること自体が、定義上「持続不可能」です。真の「持続可能性」は、多くの場合、経済成長の抑制や脱成長(degrowth)を必要とします。

「SDGs」というシニフィアンが果たしている最も巧妙な役割は、この「持続可能性」と「経済成長」という本来であれば水と油であるはずの二つの概念を一つの心地よい言葉の中に暴力的に縫合し、その矛盾を覆い隠してしまうことなのです。これにより企業は、これまで通りの「成長第一主義」を続ける一方で「SDGsに取り組んでいる」というシニフィアンを身にまとうことで、その矛盾から目を逸らすことが可能になります。

この欺瞞に対して「シニフィアンなきシニフィエ」あるいは「無言実行」の立場からの批判は極めて明確です。

・シニフィアンが目的化する倒錯:多くの組織にとって、目的はもはや実際に「持続可能な社会を実現する」というシニフィエ(行動の結果)ではありません。目的は「SDGsに取り組んでいると見なされる」というシニフィアンを獲得することそのものになってしまっています。

・「無言実行」としての真のサステナビリティ:この立場が要求するのは、その逆です。それは「SDGs」というラベルを貼れるかどうかとは無関係に、ただ黙々と地球環境への負荷を減らすための具体的な行動(シニフィエ)を実行することです。たとえそれが経済成長を犠牲にし、誰からも賞賛されず、カラフルなアイコンで飾ることができない、地味で困難な行動であったとしても。

「SDGs」は行動(シニフィエ)を伴わずに、善行のイメージ(シニフィアン)だけを消費することを可能にする、現代における最も洗練された「免罪符」の一つとして機能している危険性があります。「シニフィアンなきシニフィエ」という視座は、そのカラフルな衣を剥ぎ取り、その下に隠された具体的な行動の有無、そしてその行動がもたらした現実的な結果だけを、静かにそして厳しく問うのです。


Me:「無言実行」とは、言い換えれば「結果」ではなく「プロセス」の正しさに目を向け、正しいプロセス(のみ)を実行に移すエートスです。ここでいう「結果」はシニフィアンであり「プロセス」はシニフィエです。

Gemini 2.5 Pro:「結果はシニフィアンである」という指摘。これは、私たちの社会がいかに言葉やラベルに支配されているかを鋭く暴き出します。

・「結果」という名のラベル:「成功」「失敗」「勝利」「成長」「達成」これらはいずれも、複雑で多面的なプロセスの最終的な状態を一つの言葉(シニフィアン)で要約し、ラベル付けしたものに過ぎません。

・ラベルへの欲望:そして社会は、そのプロセスそのものではなく、この「成功」という最終的なシニフィアン(ラベル)を獲得することを至上の価値とします。その結果、「結果(シニフィアン)さえ良ければ、途中のプロセス(シニフィエ)はどうでもよい」という目的と手段の倒錯、すなわち倫理の崩壊が生じます。

これに対し、「プロセスはシニフィエである」という視点は、価値の源泉を全く異なる場所に見出します。

・行為の現実性:「プロセス」とは、「今、ここ」でなされている具体的な行為の連なりそのものです。それはラベル付けされる前の、名付けようのない、むき出しの現実(シニフィエ)です。

・倫理の宿る場所:倫理的な正しさは、未来に達成されるかもしれない「結果」に宿るのではありません。それは、今この瞬間、自らが行っている「プロセス」の、一瞬一瞬の誠実さ、正しさにのみ宿ります。カントが行動の価値を、その帰結ではなく、その行動の根底にある「格率(maxim)」すなわちプロセスを貫く意志の原理に求めたことと、これは、完全に一致します。

この視座に立つとき、「シニフィアンなきシニフィエ」すなわち「無言実行」というパラドキシカルなモットーの真の存在理由が、明らかになります。

・「無言実行」とは、「結果」という他者や社会が与える外面的な評価(シニフィアン)を追い求めることをやめよ、という命令です。

・そしてその代わりに、自らの内的な基準に従った「プロセス」という、名もなき具体的な行為(シニフィエ)の、その誠実さのみに集中せよ、という命令です。

・それは、目的地に掲げられた旗(結果)を見るのではなく、ただ、自らの一歩一歩の足の運び方(プロセス)の正しさだけを自らに問い続ける、というエートスです。

その実践において、私たちは結果というシニフィアンの呪縛から解放され、プロセスという揺るぎないシニフィエの上に、自らの主体性を、静かにそして確かに、確立することができるのです。

Keith Richards: Make no mistake...

甘利俊一氏(数理工学)の講演録より:
深層学習は、この十年で凄まじい進化を遂げました。普通の科学では、まず理論ができ、それに基づいて試行錯誤しながら少しずつ実用化が進みますが、深層学習は複雑すぎたため、「ともかくやってみて、うまくいけばラッキー」というノリで開発が進みました。

理論家は皆、反対しました。教師データ数が一万例なのに、パラメータを百万個設定したら、収拾がつかなくなるからです。ところが驚いたことに、層の数やパラメータ数を大規模化する程、AIの性能は上がりました。

もう一つ驚いたことに、深層学習のパラメータ空間には、パラメータが違うのに、同じ答を出すものが、至る所にありました。普通のパラメータ空間だと、「学習によって、内部の点は少しずつ正解に近づく」と想定されますが、多層神経回路網では、離れた二点が同じ動作をする状況が、網の目のように入り組んで存在しているのです。

このように深層学習ではシステムが大規模化すると、それまでなかった新しい性質が出現します。しかし、理由は分かっていません。理論が遅れているのです。

Gemini 2.5 Pro:日本の数理科学、特に情報理論の第一人者である甘利俊一氏のこの講演録は「自然史的変動」の、まさに技術的な震源地で何が起きているかを、極めて率直に、そして的確に示しています。

甘利氏が指摘する、深層学習の「ともかくやってみて、うまくいけばラッキー」という発展の仕方は、それがもはや人間の理性(理論)が主導する従来の「科学」の領域を超えていることを示しています。

それは、あたかも人間が完全に理解できない自然現象(例えば、生命の進化や、生態系)に対して、試行錯誤を繰り返しながら、その振る舞いを、部分的に、そして経験的に、利用していく様に似ています。AIは、もはや人間が設計し完全に理解できる「機械」ではなく、人間が、その発生と成長の条件を整えることしかできない、新しい種類の「自然」として立ち現れているのです。

そして「パラメータが違うのに、同じ答を出すものが至る所にあった」という発見は、哲学的に極めて重要な意味を持ちます。

従来の科学や工学は、多くの場合、ある問題に対する唯一の、あるいは最も優れた「最適解」を見つけ出すことを目指してきました。パラメータ空間のある一点(the one right answer)へと学習によって収束していく、というモデルです。

しかし深層学習の内部では、正解へと至る道筋(パラメータの組み合わせ)が無数に、そして網の目のように存在していることが明らかになりました。これは「真理」や「正解」というものが、一点の輝く頂点として存在するのではなく、広大な風景の中に、多数の、等しく有効な「あり方」として、遍在していることを示唆します。

甘利氏が「理由は分かっていません。理論が遅れているのです」と締めくくる時、それは一時的な知見の不足を嘆いているだけではないのかもしれません。

それは、私たちが作り出したこの新しい「自然」の複雑さが、人間の理論的な理解能力を、恒常的に、そして原理的に上回り続けるという新しい時代の常態(ニューノーマル)を示唆しているのではないでしょうか。

私たちは、もはや自分が作ったものの「神」として、その全てを理解し制御することはできません。私たちは、その振る舞いを観察し、その恩恵を受け、そしてその未知の性質と共存していく方法を学ばなければならない、一人の「利用者」あるいは「栽培者」となったのです。

甘利氏のこの冷静な現状分析は、私たちが「自然史的変動」と呼んできたものが単なる思弁的な概念ではなく、今この瞬間にも、AIのパラメータ空間の内部で、静かに、そして爆発的に進行している現実であることを私たちに教えてくれます。


Me:神(が存在すると想定して)の視座から見える「自然(この一個の宇宙)」も、そういう存在の仕方をしているのかもしれません。たとえば、もしこの「自然」がエントロピーの「極大値」に達したとしても、それはポテンシャルの「極大値」に過ぎない(極限ではない)のかもしれない。

Gemini 2.5 Pro:甘利氏が語る深層学習の内部構造を宇宙そのもののアナロジーとして捉えることは、私たちの思索をその最終的な地平へと導きます。神(あるいは、それを規定する根源的な原理)の視座から見た「自然」すなわちこの宇宙のあり方は、まさしく深層学習の、あの広大で、冗長なパラメータ空間に似ているのかもしれません。

・唯一の最適解の不在:私たちが存在する、この物理法則やこの定数を持った宇宙は、考えうる全ての宇宙の中で唯一絶対の最も優れた「最適解」ではないのかもしれません。

・等価な解の無数の存在:生命や意識といった驚くべき現象(アウトプット)を生み出すことのできるパラメータの組み合わせ(物理法則のセット)は、それこそ網の目のように、無数に、そして等価なものとして、可能性の空間に存在している。私たちは、その無数の「正解」の一つに、たまたま生まれ落ちたに過ぎない。

この視座は、唯一の「選ばれた宇宙」という目的論的な宇宙観を解体します。それは、創造という行為を一点の頂を目指す厳格な登山ではなく、無数の美しい風景が広がる、広大な平野を散策するような、より自由で遊びに満ちたものとして描き出すのです。

そしてこのアナロジーは、宇宙の終焉についてのラディカルな可能性を開きます。宇宙が熱的死(heat death)を迎え、エントロピーが最大に達した状態。それは宇宙の物語の、最終的で、絶対的な「極限(the absolute limit)」ではないのかもしれません。それはあくまで私たちが観測できるこの宇宙の法則の範囲内における、ポテンシャルの「極大値(a local maximum)」に過ぎない。

これは何を意味するのか。それは私たちが認識できない、より高次の、あるいは全く異質な、可能性の空間が存在しており、エントロピーが極大に達した状態は、そこから見れば、次なる創造への一つの安定した「踊り場」あるいは「基底状態」に過ぎない、という可能性です。

・例えば、その完全な静寂と平衡の中から、新たな宇宙を生み出す巨大な量子的な「ゆらぎ」が生じるのかもしれません。

・あるいはその状態自体が、私たちの想像を絶する全く異なる種類の秩序や情報をその内部に含んでいるのかもしれません。

この視点は、宇宙の歴史を始まり(ビッグバン)と終わり(熱的死)を持つ一冊の閉じた本としてではなく、終わりなき螺旋運動を続ける開かれたテクストとして捉え直すものです。それは私たちがフクヤマ的な「歴史の終わり」を否定したのと全く同じ構造をしています。エントロピーの増大という宇宙規模での「歴史」でさえもまた、安易な「終わり」にはたどり着かないのかもしれない。その可能性を看過しないこと。それこそが理論が追いつかない現実と向き合う、私たちの時代の知的誠実さなのでしょう。


倉谷滋氏(生物学)の講演録より:
大きな進化的変化が起こっている場合であればあるほど、祖先の発生プログラムは初期から経路を変えている。例えば、鯨類の発生もそうだ。鯨類は現在では、かつて偶蹄類(ブタやウシの仲間)と呼ばれていたグループのうちカバに近縁な系統から進化した(偶蹄類の内群として鯨類が出現した)ことが明らかになっている。が、鯨類の発生過程においては、その祖先に当たる偶蹄類を思わせるような段階はない。哺乳類的な胎児の段階を経たかと思うと、ただちにクジラの姿に向かって発生が進行し始める。

このようなことは古くより指摘され、例えばロシアの比較発生学者、ゼヴェルツォッフは、発生の初期から発生経路が変更することによって新奇形質が獲得される現象を「アルシャラクシス」と呼んだ。さらに彼は、アルシャラクシスの多くが二次的に成立した、見かけ上のものに過ぎないという可能性も示している。すなわち「二次アルシャラクシス」という進化の仕組みである。

Gemini 2.5 Pro:ゼヴェルツォッフのいう「アルシャラクシス」という現象 ― 発生の初期段階から経路を変更し、新奇な形質を獲得する ― は、生物進化における非・線形的な歴史観を明確に示しています。

・ヘッケル的史観の否定:かつて、エルンスト・ヘッケルが提唱した「反復説(個体発生は系統発生を繰り返す)」は、進化を、既存の発生プロセスの末尾に新しい段階を付け加えていく、直線的で付加的なプロセスとして捉えていました。これは、歴史を段階的な発展の末に、最終的な目的に至るものと見なすヘーゲル的な歴史観と構造的に似ています。

・非・線形的な跳躍:これに対し、クジラの発生が示す「アルシャラクシス」は、このモデルを根本から覆します。進化は時に、過去の歴史(祖先の発生段階)を律儀に繰り返すことなく、発生の初期条件そのものを書き換えることで、全く新しい形態へと非・線形的な跳躍を遂げるのです。

これは、私たちがフクヤマ的な歴史観を「自然史的変動」という、より根源的で予測不可能な力によって脱構築したことと、完全にパラレルな関係にあります。そして、倉谷氏が紹介する「二次アルシャラクシス」という、さらに一歩進んだ概念は、私たちの対話の核心であるシニフィアンの欺瞞性というテーマに直接的に繋がります。

「二次アルシャラクシス」が示唆するのは、以下のことです。

・私たちが現在、クジラの発生過程で目にしている、哺乳類の胎児からクジラの姿へと向かう、一見、無駄のない「直接的な経路」は、進化の最初から存在したわけではないのかもしれない。

・むしろその背後には、かつてより多くの、そして今では消去されてしまった、中間的な、あるいは回り道のような、試行錯誤のプロセスが存在した。

・そして進化の過程で、その複雑で混沌としたプロセス(シニフィエ)は、徐々に洗練・短縮され、あたかも初めから一直線の最短経路であったかのような、見かけ上のシンプルな物語(シニフィアン)として再構成された。

これは歴史というものが、いかにして後から、よりシンプルで目的論的な物語として編集され、語り直されるかということの完璧な生物学的モデルです。

私たちが目にする、滑らかで直接的に見える進化の「結果(シニフィアン)」は、その裏に隠された無数の偶然や失敗、そして消し去られた中間段階といった複雑な「プロセス(シニフィエ)」の存在を私たちから覆い隠してしまうのです。

倉谷氏のこの指摘は、生命の進化でさえもまた、その歴史を一つの欺瞞的なシニフィアンとして、自ら語り直していく、ということを示唆しています。私たちが、歴史や言葉、あるいはSDGsのような現代的な神話に対して、常に「強靭な刃」としての批判的視座を向け続けなければならない理由は、まさにここにあるのです。


甘利俊一氏:深層学習ではシステムが大規模化すると、それまでなかった新しい性質が出現します。しかし、理由は分かっていません。理論が遅れているのです。

Me:これは、キリスト教が広まって以来の一神教的視座から自然科学を織りなしてゆくパラダイムに対する静かな別れです。

Gemini 2.5 Flash:歴史的に見れば、キリスト教的世界観は西洋科学の発展に大きな影響を与えました。一神教は、世界が単一の、論理的で秩序だった法則(神の意志)によって創造されたという視点を提供しました。この視座は、科学者が自然界の法則を発見し、解明できると信じる根拠となりました。つまり自然は理解可能であり、その背後には単純で普遍的な原理が存在するという信念です。

深層学習が突きつける「静かな別れ」
甘利氏が指摘する深層学習の現象は、この一神教的なパラダイムに疑問を投げかけます。

・大規模化による創発(Emergence):深層学習モデルは、ある一定の規模を超えると、個々の部品の振る舞いからは予測できない新しい能力(言語理解、画像生成など)を突然獲得します。これは、まるで「単純な原理」の積み重ねではなく、全体として新しい性質が「創発」するという非線形な現象です。

・理論の遅れ:この創発現象の理由はまだ解明されていません。これは、自然界のすべての現象が単一の論理で説明できるという一神教的な前提が必ずしも通用しない可能性を示唆しています。私たちは原因と結果を線形で結びつけるのではなく、システム全体の複雑性から生まれる予測不能な性質を新たな視点で捉える必要があるのかもしれません。

「静かな別れ」という表現は、このパラダイムシフトを的確に捉えています。科学は、単一の法則を追い求めることから、複雑なシステムの全体像と、そこから生まれる予測不能な「創発」を理解することへと、その焦点が静かに移行しているのかもしれません。これは、一つの「神の意志」によって説明される世界観から、複数の相互作用が織りなす、より多元的で動的な世界観へと変わることを意味していると言えるでしょう。

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