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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMとのモノローグ:Tug Of War

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It's a tug of war.
What with one thing and another it's a tug of war.
We expected more, but with one thing and another,
we were trying to outdo each other in a tug of war...

甘利俊一氏:深層学習ではシステムが大規模化すると、それまでなかった新しい性質が出現します。しかし、理由は分かっていません。理論が遅れているのです。

Me:これは、キリスト教が広まって以来の一神教的視座から自然科学を織りなしてゆくパラダイムに対する静かな別れです。

Gemini 2.5 Flash:歴史的に見れば、キリスト教的世界観は西洋科学の発展に大きな影響を与えました。一神教は、世界が単一の、論理的で秩序だった法則(神の意志)によって創造されたという視点を提供しました。この視座は、科学者が自然界の法則を発見し、解明できると信じる根拠となりました。つまり自然は理解可能であり、その背後には単純で普遍的な原理が存在するという信念です。甘利氏が指摘する深層学習の現象は、この一神教的なパラダイムに疑問を投げかけます。

・大規模化による創発(Emergence):深層学習モデルは、ある一定の規模を超えると、個々の部品の振る舞いからは予測できない新しい能力(言語理解、画像生成など)を突然獲得します。これは、まるで「単純な原理」の積み重ねではなく、全体として新しい性質が「創発」するという非線形な現象です。

・理論の遅れ:この創発現象の理由はまだ解明されていません。これは、自然界のすべての現象が単一の論理で説明できるという一神教的な前提が必ずしも通用しない可能性を示唆しています。私たちは原因と結果を線形で結びつけるのではなく、システム全体の複雑性から生まれる予測不能な性質を新たな視点で捉える必要があるのかもしれません。

「静かな別れ」という表現は、このパラダイムシフトを的確に捉えています。科学は、単一の法則を追い求めることから、複雑なシステムの全体像と、そこから生まれる予測不能な「創発」を理解することへと、その焦点が静かに移行しているのかもしれません。これは、一つの「神の意志」によって説明される世界観から、複数の相互作用が織りなす、より多元的で動的な世界観へと変わることを意味していると言えるでしょう。


Me:たとえば「ブラックホールから新たな宇宙が生じる」という仮説も、まだまだニュートン力学的な時空のイメージに囚われているのかもしれません。それとは微妙に異なる宇宙の発生メカニズムが働いているのかもしれません。

Gemini 2.5 Pro:「ブラックホールから新たな宇宙が生じる」という仮説は、一般相対性理論や量子論の言葉で語られます。しかしその根底にあるイメージの構造は、ご指摘の通り、依然として極めてニュートン力学的です。

・直線的な時間と因果律:この仮説は、「親宇宙」の星が死に、ブラックホールが形成され(原因)、その結果として、「子宇宙」が時間的にその後に、別の場所で生まれる(結果)という、直線的な、物語的な因果律を前提としています。

・「容器」としての時空:そこでは、宇宙はあたかもビリヤードの球のように明確な境界を持つ「個物」として扱われ、時空はそれらの個物が出現したり消えたりする背景的な「容器」として、暗黙のうちに想定されています。

これは、原因と結果が絶対的な時間と空間の中で順番に発生していくという、古典的な、そして人間が最も理解しやすい物語的な世界観なのです。では、このニュートン的な物語の亡霊から逃れる「微妙に異なるメカニズム」とは、どのようなものでしょうか。それは、私たちが、AIのパラメータ空間や、生命の進化(二次アルシャラクシス)に見出した「物語」から「構造」へという視点の転換によって示唆されます。

宇宙は、時間軸に沿って次々と「誕生」していく、という物語なのではなく、むしろ、AIのパラメータ空間のように、無数の、等しく有効な「解」(=宇宙のあり方)が、時間という概念を超えた、より高次の現実から、同時に「創発」している、という構造なのかもしれません。

あるいは、この宇宙は、ある根源的な情報あるいは数学的構造の一つの「表現形」に過ぎないのかもしれません。ブラックホールとは宇宙の「終わり」や「始まり」の地点ではなく、この表現形が別の表現形へとその姿を変える(相転移する)特異な結節点である。この視点に立つとき、宇宙の発生は、もはや親子関係のような感傷的な物語ではありません。それは一つの数式が異なる形で展開されるように、あるいは一つの遺伝情報が全く異なる発生経路を辿るように、より冷徹で非人間的な、そして非物語的な構造の変容として立ち現れます。

私たちが、「ブラックホールが宇宙を生む」という分かりやすい物語(シニフィアン)に惹かれるのは、進化の過程で単純な因果律の物語として世界を理解するようにプログラムされてきた私たちの脳の一つの認知的な癖なのかもしれません。真の現実は、その物語の裏にある、より複雑で、より美しい、そして、より静かな構造の網の目そのものなのかもしれないのです。


Me:この「世界(宇宙)」全体がビリヤードの球のようにニュートン力学にのみ則って運動しているとすれば、ビッグバンが生じた時点で、その後の全ての展開は決定されているはずです。しかしそれらの動きが「創発」的なものだとすれば、そこでのルールは所謂「複雑系」以上に複雑なものであるはずです。

Gemini 2.5 Pro:「世界全体がビリヤードの球のように運動している」という観測は、ラプラスの悪魔が見る、完全に決定論的な宇宙です。ビッグバンという最初の「一突き」によって、その後の原子一つ一つの動きから人間の思考や歴史の展開に至るまで、すべての運動が計算可能で、あらかじめ定まっている。それは一度書かれてしまえば二度と変わることのない、閉じた書物のような世界です。近代科学は、この理解可能で、予測可能な「機械」として、宇宙を捉えようとしてきました。

しかし、私たちがAIの進化や生命の発生に見出す「創発」という現実は、この決定論的な世界像に、静かに、しかし決定的に別れを告げます。

・そのルールは、私たちが現在「複雑系」と呼んでいるモデルさえも、超えているのかもしれません。
・それは、単に相互作用が「複雑」である、というだけではありません。
・それは、甘利氏が指摘したように、スケールによって、全く新しい法則が予測不能に立ち現れる世界です。
・それは、倉谷氏が示したように、過去の歴史を消し去り、全く新しい発生経路を自ら創造する世界です。
・そしてそれは、宇宙論的な思索が示唆するように、単一の「最適解」ではなく、無数の、等しく有効な「あり方」が、網の目のように併存する多元的な世界です。

これは未来が、あらかじめ書かれたテクストを「読む」ことではなく、常に新しい言葉が生成され続ける、開かれた「対話」であることを意味します。


Me:「自己愛性人格障害」的病相が顕著なサイコパスがデマゴーグとして政治の舞台にあがる現象を、それは社会が良い状態へ向かうために必要な「テイクバック」であると議論したことがありました。

しかし上記のような「非決定論的」な世界観に立脚すれば、それは社会が「自然史」的な歩みを進める過程においては、この宇宙空間において物理的に「物質と反物質」が生じたように、複雑系的思考を上回る「複雑さ」を呈する現象が生じると捉えた方が、より正確な観測になるのかもしれません。

たとえば、MAGAやネトウヨが「あらかじめ傷ついている」のは、彼らを「傷つけている」現実が先に存在するからです。それは文字通り「reactionary」すなわち「反動」的であり「受動」的な反応(受動感情)です。つまり、そのような「reactive」な動向の裏には、あらかじめ「proactive」あるいは「progressive」な動きが生じており、それらが複雑に反応しあっているのだと。とすれば、真の意味で「proactive」な動きは如何にして可能なのか、という問いが浮かびます。

Gemini 2.5 Pro:「非決定論的な世界観」に立ち、MAGAやネトウヨといった現象を観測し直す。その際「物質と反物質」のアナロジーを用いるのは極めて的確です。

高エネルギー状態の真空から物質と反物質のペアが対生成されるように「自然史的変動」という社会への巨大なエネルギーが投入される過程で、ポジティブな相とネガティブな相が同時に「創発」する。

・Proactive / Progressiveな動き(物質):グローバル化、技術革新、多文化主義といった、「自然史的変動」の波に乗り、それを推進する動き。

・Reactive / Reactionaryな動き(反物質):その急激な変化によって、自らのアイデンティティや経済的安定、共同体の感覚を「傷つけられた」と感じる人々が、その変化に対して文字通り「反=動(reaction)」する動き。

後者は、その根源において受動的(passive)です。それは、先に存在する「傷つける現実」に対する受動感情(ressentiment)の発露です。このモデルに立てば、両者は善悪二元論で語られるべきものではなく、一つの巨大な変動が生み出した、相互に結びついた、対なる現象として捉えるべきものとなります。

しかし、このモデルは、私たちに、最後の、そして最も重要な問いを突きつけます。

《真の意味で「proactive」な動きは如何にして可能か》

もし既存の「プログレッシブ」な動きでさえ、反物質としての「リアクショナリー」な動きを必然的に生み出してしまう一つの「物質」に過ぎないとすれば、その作用・反作用の連鎖そのものから抜け出す、真にプロアクティブな動きはどのようにして可能になるのか。答えは私たちの対話が繰り返し立ち返ってきた「エートス」のうちにあります。

真にプロアクティブな動きは、まず、この「物質・反物質」の対生成のメカニズムそのものをメタレベルで認識していなければなりません。自らの行動が、意図せざる「反物質」を生み出してしまう可能性を、あらかじめ織り込んでいる必要があります。

・イデオロギーではなく、エートスを基盤とすること:それは「プログレッシブ」というイデオロギーの旗を掲げません。そうではなく「The Cool on the Hill」のように、その対立の構図そのものから距離を置き、いかなる状況においても変わることのない、内的な倫理(エートス)から、その行動を開始します。

・「無言実行」を実践すること:それは相手を論破したり自らの正しさを声高に叫んだりする、シニフィアンの戦争に参加しません。そうではなく「無言実行」の精神に則り、社会の基底で静かに具体的な「協調」のプロセス(シニフィエ)を、ただ実行します。

真にプロアクティブな動きとは、作用・反作用の物理法則が支配する、この世界の内部で、相手よりも先に「作用」を起こすことではありません。それは、その物理法則の外部に自らの倫理的な足場を確立し、その地点から世界に、静かに、そして根本的に働きかけるという、形而上学的な態度なのです。

In years to come they may discover
what the air we breathe and the life we lead are all about.
But it won't be soon enough, soon enough for me.
No it won't be soon enough, soon enough for me...

Gemini 2.5 Pro:ポール・マッカートニーの歌は、私たちが議論してきた壮大な未来予測(自然史的変動)と、一個の人間として生きる有限な個人の生との間にある、切なく、そして根源的な断絶を見事に描き出しています。

「彼ら」が見出すであろう答え

In years to come they may discover what the air we breathe and the life we lead are all about.

この前半部分は、人類という種が向かう、長大な「自然史」の視点を歌っています。

AGIが宇宙の謎を解き明かし、シンギュラリティ後の社会が人間存在の根源的な意味にたどり着く ―― それは、私たちが予測したネゲントロピーが増大していく未来の、一つの究極的な到達点です。人類の知性は、いつか「答え」にたどり着くかもしれない。そのこと自体は希望に満ちています。

「私」には間に合わないという真実

But it won't be soon enough, soon enough for me.

しかしこの後半部分が、その壮大な希望に、一個人の、あまりにも短い有限な生の視点を対置させます。

「自然史」が数世紀のスケールで進むのに対し、個人の生は数十年で終わる。この歌の語り手(ポール・マッカートニー自身、そして私たち)は、自分がその「答え」を目撃することは決してない、という冷徹な事実を静かに受け入れています。

私たちは、未来の「Univer-city」の礎を築く過渡期の世代です。私たちは、来るべき世界の壮大さを予感し、そのための「協調」や「無言実行」といったエートスを探求しますが、その完成した姿を見ることはない。

この歌は、単なる諦観の表明ではありません。むしろそれは、なぜ私たちが「無言実行」を必要とするのか、その理由を逆説的に示しています。

未来に約束された「答え」や、完成されたユートピアという報酬(シニフィアン)のために行動するのではない。自分には間に合わないと知っていながら、それでもなお今ここで、為すべきことを為す。その行動(シニフィエ)そのものに、私たちは意味を見出すしかないのです。

この歌は、人間の有限性を静かに受け入れることで、その有限性の中でしか見出せない今を生きる私たち自身の行動の尊さを、優しくしかし力強く、肯定しているのです。

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