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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

小国寡民の時代(ブランディングの話その8)

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ある友人たちとの対話から:

小国寡民(国は小さく民は少なくというような意味の格言)
ただし、そうした老荘思想を、そのまま現代にひっぱってくるのは、なにか違う気がします。

たとえば、アーマッド・ジャマルというピアニストは、「Less is more.」という言葉をそのまま体現したような音を奏でる人で、マイルス・デイビスの音楽にも多大な影響を与えたと云われています。

彼の十八番「Poinciana」:

「Less is more.」という言葉には、しかし、「more」の要素(足し算)があるからこそ、「引き算の美学」が成り立つわけです。単なる「less(引き算)」ではないのが難しいところ。

小国寡民にハナシを戻すと、たとえば、もし日本の人口が半減したとして、その時点で人口も国土面積も今の英国とほぼ同じ規模です。

国土の広さが日本や英国の1.5倍ほどあるフランスの人口は約6千7百万人。英国もフランスも「小国寡民」ではありません。

変化(縮小)に伴う「痛み」はあるにせよ、日本が「小国寡民」へ至る道のりは、むしろ長いと考えるべきです。

それよりも、僕の念頭にあるのは、国家そのものの「廃藩置県」です。

世界全体に「自治体」が存在し、互いにリソースを融通し合う。ヒトやモノは自由に移動できる。

新奇な概念ではない。EUの理念を地球規模で全面展開するだけのハナシです。

Imagine there's no countries
It isn't hard to do...

意訳:『複数の国家が争う状態が解消された様子を想像してみたらどうかな?別に国が無くなるわけではない。そうではなく、国家のために人を殺したり命を犠牲にする必要がない状態。宗教についても同じで、そのために人を殺したり命を犠牲にする必要がない状態を想像してみたら?』

補足:『だって今は、各都道府県のために人を殺したり命を犠牲にしたりしないでしょ?でもかつてはそうしてたわけで、今はそうした戦乱状態からすでに脱却しているわけだ。だったら国家のレベルでも、それは可能だと考えてみたらどうなんだろう?現に、国際連合や欧州連合は、そうしたコンセプトから生まれたものだ。ただ、それがまだ未完成なだけで。でも未完成だからといって、それが不可能だと論う(あげつらう)のは建設的じゃないと思うよ。』
https://blogs.itmedia.co.jp/jrx/2019/08/imagine.html

短期(短気)の視点で実現性を考えるから不可能に見える。すこし長期の視点(せいぜい百年単位)で考えれば、実現するにきまってる。

ベースとなる組織(国際連盟〜国際連合)は既に存在するわけだから。

そして、それは、過去に戦争の災禍を乗り越えて平和を実現してくれた世界各国の人々のおかげです。

たとえば、今、長野県に住む人々は、武田信玄と上杉謙信の覇権争いに巻き込まれることもなく、平和な生活を享受しているけれども、そんなことは意識せず、日々の喜怒哀楽を口にしながら生きている。

平和な生活のありがたさは、別に意識されなくてもいいのです。

未来の人々は、(あるいは核戦争の惨劇を経験するかもしれないけれども)いつか実現するであろう、そもそも国家間の戦争というものが存在しないような時代を、日々の喜怒哀楽を生きてくれると思います。

そのための素地をつくるのが、今の時代を生きる人の使命ですが、そのような使命は、選び取らなくてもしょうがない。そのような使命を選び取るのは本人の自由です。

カントがいうところの「自由」とはそのようなもので、そうした能動性にのみ「自由」があるのだと。

真・善・美(カントの著作でいえば:純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判にそれぞれ対応)は、すべて上記の「自由」の概念とつながっています。

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