第三の道、あるいは第四の道とは(ブランディングの話その5)
今回、岩手沿岸300キロを徒歩で縦断し、改めて気づいたことがある。農村と農業、漁村と漁業は区別して考えてないといけない。農漁業が発展しても、農漁村は衰退すると、柳田国男と宇沢弘文は指摘していたが、まさにその通りになっている。だから直販で農漁家個人が儲かることだけでは答えにならない。
-- 高橋博之 (@hirobou0731) July 13, 2020
友人との対話から:
近代(主観)でもない、現代(構造論)でもない、第三の道、第四の道とは何か。
柄谷行人「遊動論」より:
《明治以後の農業政策は、農村に存在した手工業・加工業をすべて都市に移し、農村をたんに原料のみを生産する場とするものであった。ゆえに、農業生産力は増大したが、農村は衰退した。いいかえれば、農村は貧しくはなくても、"寂しい"ものとなった。柳田は協同組合を農業ではなく、農村、すなわち人々のさまざまなネットワークから考えようとした。したがって、それは、農業、牧畜、漁業のみならず、加工業、さらに流通や金融を包摂するものである。柳田の協同組合は、究極的に、農村と都市、農業と工業の分割を揚棄することを目指すものである。》
たとえば、ジェイン・ジェイコブズがいうところの「原都市」:
都市の街路や地区で、溢れんばかりの多様性を生成するためには、4つの条件が必要不可欠である。
1. 地区、そして、地区内部の可能な限り多くの場所において、主要な用途が2つ以上、望ましくは3つ以上存在しなければならない。そして、人々が異なる時間帯に外に出たり、異なる目的である場所にとどまったりすると同時に、人々が多くの施設を共通に利用できることを保証していなければならない。
2. 街区のほとんどが、短くなければならない。つまり、街路が頻繁に利用され、角を曲がる機会が頻繁に生じていなければならない。
3. 地区は、年代や状態の異なる様々な建物が混ざり合っていなければならない。古い建物が適切な割合で存在することで、建物がもたらす経済的な収益が多様でなければならない。この混ざり合いは、非常にきめ細かくなされていなければならない。
4. 目的がなんであるにせよ、人々が十分に高密度に集積していなければならない。これには、居住のために人々が高密度に集積していることも含まれる。
この4つの条件は、どれかひとつが欠けても有効に機能しない。都市的多様性が生成するためには、4つの条件すべてが必要である。
ジェイン・ジェイコブズ "The Death and Life of Great American Cities"
あるいは、ミシェル・セール:
《コミュニケーションを行なうことは、旅をし、翻訳を行ない、交換を行なうことである。つまり、「他者」の場所に移行することであり、秩序破壊的というより、横断的である異本としての「他者」の言葉を引き受けることであり、担保によって保証された品物をお互いに取り引きすることである。》(ヘルメス I)
あるいは、フロイトがいうところの倫理性や良心の由来:
《人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。》(マゾヒズムの経済論的問題)
柄谷行人さんがいう普遍宗教(交換様式D)が「人間の意思に反して生まれてくる」というのは、そういうことなのでしょう。しかしそれは自分の内側から「強迫的」に回帰してくる。
カントがいう「意志」もそういうものですね。カントは、一般的にいわれる「自由意志」は「傾向」に過ぎないと斥けます。
カントは、神の意志を知り、それに従うことが「自由」なのだと言います。もちろん、その「神」とは、イエス・キリストやマリア様ではない、偶像化できない何かです。
カントがいうような物自体、言い換えると「目に見えないもの」は、神秘的なものではなく、ごくありふれた存在です。(それは過去の死者でもあり、まだ生まれていない未来の若者でもあり、あるいは市井の民であったり)
そのようなありふれた「他者」あるいは「自分自身」を「手段としてのみならず目的としても扱う」というのが、カントがいう倫理の基本です。
たとえば、それは、消費者を生活者に変える取り組み。
神の意志が、リアルな、ありふれた日常として現れる。
That's the way, I like it.