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終身雇用の終焉は自身の社会的価値を高める好機となる

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ある日、ピカソが歩いていると、1人の女性が彼を呼び止めた。彼女はピカソの大ファンだといい、用意した紙に「絵を書いてくれないか?」と尋ねる。

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ピカソは小さくも美しい絵を描き始めた。そして「この絵の値段は100万ドルです」と女性に言い絵を渡した。

それを聞いて驚いた女性は「この小さな絵を描くのに、あなたは『たった30秒』しかかかっていないではありませんか」と言った。

その言葉を聞いたピカソは苦笑しながら「お嬢さん、それは違う。30年と30秒だ」と返したという。

そんな30年を私は持っているだろうか。

自分をピカソのような天才と比べるのはなんとも不遜なことだとは承知している。しかし、この逸話から得られる教訓は、自分に当てはまることも多い。

私は、ピカソのようにひとつのことに30年を費やしてきたわけではない。ただ、サラリーマンを卒業して、30年ほどは経っているという点においては、共通しているだろう(笑)。

そして、浮き沈みあり、様々な辛酸を舐めながらも、こうやってなんとか食いつないでいる。安定などと言う言葉とは無縁の人生だ。そんな危機感から押し出される行動が、人のつながりを増やし、自分のスキルを磨くことの原動力となっている。幸いにも、いまはまだ仕事の機会を頂けているが、この先はどうなるか分からない。

私には会社が与えてくれる給与や保険、福利厚生というセーフティネットがない。だから自分の社会的価値を高めなければ生きてゆくことができない。その危機感こそが、社会的価値を高めるために、何をすればいいのかを考えつづけるエネルギー源となっている。

話は変わるが、昨今、経済界のトップから終身雇用は維持できないという発言が相次いでいるが、これは日本という国を成長させるチャンスではないかと、私は前向きに捉えている。ご批判を覚悟であえて申し上げれば、私は終身雇用という企業慣習が、我が国のいまの生産性の低迷を招いた大きな理由であると思っている。

つまり、一度「就社」してしまえば、自分の生産性など追求しなくても給与をもらい続けることができるからだ。そのため、生産性など考えなくても、とにかく仕事をしていればいい。そういう日常が、生産性への感覚を鈍らせてしまったのではないか。そして、同様の考えの持ち主が集まれば、この状況は常態化してしまう。さらにたちが悪いのは、そんな自分たちの麻痺した常識感覚を他人に敷衍して考えてしまうことだ。

これは実際にあったことだが、ある大手企業の方から2時間の講演を依頼されたとき、最終的な承認を得るために事前に自分の上司に同じ講演をして欲しいと依頼されたことがある。それでは、その事前公演についても請求させてもらっていいかと聞くと、それは出来ないというのだ。相手は、なぜその程度の時間を割けないのかと不満そうだった。

一人で仕事をしているというのは、いわば完全出来高制であり、キャッシュフロー経営の極致だ。だから、できるだけ効率よく時間を使わなければ、収入は減る。時間はお金なのだ。長く会社組織の中にいるとこういう感覚は育ちにくいのであろう。

ここまで極端ではないが、顔合わせのための打ち合わせや、決まっていることを説明するための打ち合わせ、事前に打ち合わせしておかないと不安だからと言う自分の不安解消のための打ち合わせが少なからずある。それを時間の無駄と感じないのは、決まって毎月給与がはいってくるというセーフティネットがあるからだろう。つまり、慣習となっていることや形式的におこなっていることの意味や目的を問うことなく、やることが普通だからやっていると言う感覚になっている。時間という資源はいくら使っても給料には無関係だ。むしろ、いろいろと時間を使う理由を作り自分の1日の時間を満たしたい、そうこうしているうちにやがて1日が終わるのだ。それになんら違和感がないのかも知れない。

お断りしておくが、全ての打ち合わせに意味のないと申し上げているわけではない。リアルに対峙して意見を出し合い、何かを仕上げてゆくには直接顔を合わせ、共感の場を持つことはとても効果的だ。しかし、そうでなければ、メールでも何とかなるだろう。単なる決まりや慣習ではなく、なぜやらなければならないのか、そのためのふさわしいやり方は何かを考え、使い分けるのが大切だ。もちろん、自分の時間も他人の時間も大切にして、ご対応頂ける方も沢山いらっしゃることは付け加えておく。

さて、このような現実を少し発展して考えれば、終身雇用というセイフティネットが、そこで働く人たちの社会的常識への感性を鈍らせてしまっているのではないか。つまり、社内の慣習や論理に従っていれば、生活には困らないわけで、あえて、社会的常識に照らし合わせて自分の社会的価値にまで考えを及ぼさなくても生きていけるという無意識の了解があるからだ。だから、ここに紹介したような社会的な常識から考えれば明らかな「ムダ」や「非常識」をそう感じさせないのであろう。そういうことが、日本における生産性を低下させているというのが私の仮説である。

では、なぜかつて日本は生産性が高かったのかと言えば、人口の増加やそれに支えられた高度経済成長という外的な要因が、生産性を高めざるを得ない状況に追い込んでいたからだろう。しかし、もはやそういう時代ではない。

ある大手企業に就職して3年になる甥が、働かないのに給与だけは高いおじさんについて、不満を漏らしていた。私は、彼もきっと昔は頑張っていたのだが、働かなくても給与がもらえるので、働かなくなってしまったのだろう。しかし、そういう人たちが、これからも会社に居続けることは難しい時代になった。だから、学び続けなさい。いくつになっても、どこに行っても必要とされる存在であり続けるためには、それしかないと、少し酔った勢いで話をした。

それに対して彼は、自分は学ぶことはきらいではない。しかし、同期にはそういうことに興味のない人たちもいる。そういう人を見ていると、たぶん働かないおじさんは、きっと若いうちからそうだったんだろうなぁ思うよ、と言っていた。よく分かっているではないか。

「終身雇用制の終焉」は、そんな日本の企業文化の転換点に起きている現象なのだろう。もちろん、これまでの企業文化の中でも、積極的に社会的価値を高めてきている人たちがいる。そういう人たちは、もはや「○○会社の□□さん」ではなく、「□□さん」という個人名で知られている人たちだ。こういうことなら「□□さん」が詳しいはずだ。こういう講演なら「□□さん」にお願いしようと言われる存在でもある。「○○会社の誰か」ではない。

彼らに共通するのは、世の中にチャネルを拡げ社外に沢山の人のつながりを持っていること、アウトプットの頻度が高くその量も多いこと、直接の仕事以外についても幅広く勉強していること、などであろうか。

つまり、自ら社会的価値を高めるために意識して努力をしている人たちだ。こういう人たちは、会社という枠を超えて高い社会的価値を持っているので、どこに行っても通用する。だから、「終身雇用は終わり」と言われても、ああそうですかといった感じだろう。当然、そういう「□□さん」は会社としても必要な存在である。

こういう人たちは忙しい人たちが多い。自ずと時間の使い方に知恵を絞るようになる。つまり生産性を高めざるを得ないのだ。そして、その結果として、仕事が出来るヤツとして評価される。

たぶんこういう人たちは、「ワーク・ライフ・バランス」なんて考えていない人が多いのではないか。つまり、ライフとワークに明確な境目がなく、どこにいても忙しく仕事をしているが、それを辛いことだとは感じていない。ここで言う仕事とは、給与をもらう仕事だけではない。お金にならなくても世の中に貢献し、やっていること自体にわくわく感を持って楽しんでいる仕事も含まれている。

私は「ワーク・ライフ・バランス」という言葉は好きではない。「ワーク・ライフ・バランス」という言葉には、ワークは生活のためにお金を稼ぐことだから辛くてもやらなくてはならないこと、ライフは辛さから解放され、ワークの疲れを癒すために仕事とは切り離されて過ごす時間のこと、という前提がある。しかし、そう考えてしまうと、終身雇用制度の下では、ワークは給与に見合う分の自分の時間を使えばよく、ライフはそれとは無関係に生きればいいということになってしまう。これでは、人生の長い時間を費やすワークが、自分の成長の機会として活かされない。だから、私はこの言葉は好きではないのだ。

ワークは自分の社会的価値を高めるための大切な機会であり、決して会社での価値を高めることではない。そう考えて行動し続ければ、終身雇用制度の終焉やリストラなんて、どうでも良くなってしまうし、なんといっても自分に納得できる生き方を貫けるのではないかと思う。

いまのように社会で求められる能力や知識が長続きしない時代では、ワークとライフを一体として捉え、そこに自分の成長の機会を見出していかなければ、変化に追従するための知識やスキルを磨き続けることは難しいだろう。「ワーク・イン・ライフ」だ。いわば自分の社会的価値を高めるための学びの生産性を高めるためには、そんな生き方が必要ではないかと思っている。

もちろん、若い世代には、こんな考え方をするのは難しいかも知れない。しかし、人生を少しばかり重ねてゆくと、このような考え方の大切さにやがては気付くはずだ。早く気付き行動に移せれば、それだけ自分を伸ばすための時間的余裕も生まれ、人生の選択肢を増やすことが出来るだろう。

天才ピカソには到底及ばないにしても、30年の価値を、自信を持って語れる生き方を、自分はしてきただろうかと思う。まだまだである。やがてはそういえるようになりたいと想いながら、この問いかけを続けて生きてゆくしかないのだと思う。

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