AI が芸術を覚えても、人は「背景」で戦える
先日夜中にふと、ぼく以外ぼくじゃない事に気づいてしまい、AI が限界まで発達してもぼくにはならないんだと胸をなでおろしました。
こんばんは、紛うことなきぼくです。
先日こんなエントリーを書きました。
僕たちは「人間らしさ」が180度変わる時代を生きているのかもしれない:ITは心の仕事です:オルタナティブ・ブログ
AI が芸術を覚えたら人間にとって機械を目指していくことが人間らしさになるというようなことを書いています。
そのことについて毎日1分ずつくらい考えて来たのですが、大事なことをすっかり忘れていたことに気づきました。
そういえば、AI には「背景」って無いよねって。
いや、あるにはあるんですが AI が 30,000,000 件の演奏を学習してこんな音を出せるようになりましたって言われて感動しますか?
せいぜい「どっからそんなにデータを集めたんだ」という、データを集めた人に向けた驚きが発生するくらいだと思うんですよね。
それに比べれば「2年間毎日12時間練習して今この場所に立っています」とか言って演奏すれば感動も一入だし、下手な演奏だったとしても「健気に頑張ったんだねぇ、才能もないのに」と、人の心を動かすことができるのです。
そういう意味では今後、どれだけ努力をしたか、どれだけキ○ガイ染みた所業を行ってきたかといったことをうまく表現することが大事になってきそうな気がします。
それを体現した好例が太田智美さんですね。
ロボットに入れ込みすぎて周囲をハラハラさせつつも、あまりののめり込みっぷりに世界のメディアから取材を受ける事態にまで発展しました。
そのうちペッパーを看取るために自分をサイボーグ化しやしないかという勢いです。
こういう強烈な背景を持っていると、機械がどれだけ高度な頭脳を持ったとしても、むしろロボットが高度になればなるほど、人の興味を強く引くのかもしれません。
ここまで行かなくても、自分の存在するコミュニティの中で、なにかしらの背景を持って、示すことができれば存在価値は認められることでしょう。
今回のエントリーには特に結論的なものはないのですが、ふと思い浮かんだので書いてみました。(いつも通りといえばいつも通りですが)
ところで、なぜ他にも色々例がありそうなのに太田さんを選んだのかといえばね、まあみなまで言わずともわかるじゃないですか。
このブログの運営元がどこなのかっていう話ですよ。
こういう気遣いができるようになるというのが大人になるということなんだろうな。