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【書評】『トレーダーの生理学』

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早川書房さまより、新刊の『トレーダーの生理学』をいただきました。ありがとうございます。ということで、いつものように簡単にご紹介と感想を。

トレーダーの生理学 トレーダーの生理学
ジョン コーツ John Coates 小野木 明恵

早川書房 2013-01-10
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スポーツの世界では、選手のパフォーマンスを最高の状態に維持するために、身体や脳の中でどのような現象が起きているのかを詳しく把握するということが普通に行われています(だからドーピングのような不正行為も起きてしまうわけですが)。スポーツ選手は肉体的な行為による結果を残すのが「仕事」なので、それも当然の話でしょう。しかしスポーツの世界だけでなく、頭脳労働というイメージが強いビジネスの世界においても、身体や脳の生理学的な動きが最終的なパフォーマンスに深く関与しているとしたら――本書はトレーダーという、頭脳労働の極地のような人々を事例に、いかに肉体が私たちの思考に大きな影響を与えているのかを解き明かします。

「身体の状態が精神にも影響する」というのは経験的にも理解できる話で、あえて解説されるまでもないと思われるかもしれません。しかし本書を読むと、この言葉が想像以上に重いものであることが分かるでしょう。単に疲れていると集中できなくなるとか、グッスリ寝た朝はやる気が湧いてくるとか、そのような単純なレベルではありません。私たちは精神力で肉体の状態を克服できる(辛いけど大好きな音楽を聴いて頑張る、など)と考えがちですが、むしろ肉体的な反応の方が精神状態を左右するということが多く、ある意味では精神の方が肉体に従属するものとして考えられることが解説されています。

その象徴として心に残ったのが、「脳は体を動かすために進化してきた」という指摘。言われてみればその通りで、人間社会の中で精神的な活動の方が重視されるようになったのはここ数千年程度。それ以前の数万年、数十万年の間は狩猟や逃走といった肉体的な活動の方が中心であり、そのために脳は機能してきたのでした。実際に、私たちが精神的な活動のために使用している脳の部分にも、もともとは肉体的な活動を可能にするために発達してきたものがあるとのこと。いうなれば私たちは、本来は肉体的な活動をするためのカラダを借りて、無理やり精神的な活動をしていることになります(念のため、「だからスポーツをしていないヤツはダメだ!」などと言いたいのではありません――僕も運動神経はゼロに近い人間なので)。

また興味深いのは、物理的ではなく心理的な危機的状況に対しても、人間の身体には反応が現れるという点。これも考えてみればお馴染みの現象で、例えばアクション映画を観ている際などに、「手に汗握る」という反応が生まれたりします(樹上生活時代に、外敵に襲われた際にすばやく木登りできるようにしていた名残りと考えられるとのこと)。しかし改めて、私たちが思っている以上に、様々なストレスに対して肉体的な反応が強く現れるのだということが解説されています。そして前述の通り、こうした肉体的な現象を精神力で抑え込めるという期待は望み薄であり、だからこそスポーツの世界のような体調管理や健康チェックがビジネスの世界でも重要なのだという点が指摘されます。

実際にウォール街の最前線で働くトレーダーのホルモンバランスなどを調査したところ、肉体面の状態と、トレーディングの成績には有意な相関関係が見られたのだとか。そうなると、朝イチで社員の健康チェックを行い、問題が確認された場合には身体上のケアを行うという企業も現れてくるのかもしれません(改めて念のために書いておくと、身体的な問題がある社員が排除されるような状況や、スポーツ界でのドーピングに相当する行為が蔓延することを望んでいるわけではありません。逆に社員の心理的・肉体的ケアを重視する姿勢が、これから成功する企業に求められるようになることを期待します)。

ちなみに著者のジョン・コーツ氏は、ゴールドマン・サックスやメリルリンチ、ドイツ銀行などで12年間、実際にトレーダーとして働いていた人物。そしてドットコム・バブルを経験し、さらに金融リスクを生理学的な側面から考察した研究に触れたことをきっかけに、自ら研究の世界に身を投じたという異色の経歴を持っています。そのためトレーディングの世界が緻密に描写されていますが、丁寧に解説されているために理解しやすく、また金融以外の業界についても適用できる考察やアドバイスが数多く集められていると感じました。ニコラス・タレブやダニエル・カーネマンらの著作を面白く感じた方、あるいは仕事上のストレスにどう対応するか悩んでいるという方ならば、読んでみて損はない一冊だと思います。

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