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「桜田門外の変」の日、雪はいつ止んだか?

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日曜日(10月5日)の朝日新聞書評欄で、作家の恩田陸さんが何冊か本を紹介されていたのですが、その中の1つ『史実を歩く』を買って読んでみました。いや、これが非常に面白くて、文字通り一夜で読んでしまった次第です。

もともと興味を持ったきっかけが恩田さんの書評だったわけですので、その部分を引用しておきましょう:

いっぽう『史実を歩く』(吉村昭著、文集文庫・560円)は、数々の歴史小説を書いてきた著者が、いかに事実にこだわってきたかという、創作の裏話だ。江戸時代のある日、雪が降っていたか否か?積もったのか?いつ止んだのか?著者はどこかに必ず記録していた人がいると信じ、何年もかけて辛抱強く資料を探し続ける。すると、情報は、それを必要とする人のところに集まってくるのだ。

(※強調は引用者)

著者の吉村昭さんは、太平洋戦争前後の時代を扱った戦史小説や、幕末から明治維新にかけての歴史小説等の作品で有名な方。小説といっても綿密なリサーチを行い、ノンフィクションに近い内容を書かれたことで知られています。その吉村さんが、情報を集める際にどんな苦労や物語があったのか――実際に手がけた小説をベースに、その裏側を語ってくれるという内容です。

このエントリのタイトル「桜田門外の変の日~」は文庫版の帯に書かれていた謳い文句なのですが、実際に吉村さんは作品『桜田門外ノ変』の中で「雪がいつ止んだか」にまでこだわった描写をされています。桜田門外の変が起きたのは1860年、従って気象庁の観測記録などがあるはずもなく、当初は「当日は雪が降った」というまでしか分かっていませんでした。しかしそれでは小説が書けない(主人公は井伊直弼襲撃の主犯格・関鉄之助であり、彼の行動を逐一追うことになるため)、ということで吉村さんは地道な調査を行い、最終的に「九ツ」(正午頃)には雪は止んでいたという情報を手にします。このくだり、まさしく恩田陸さんが仰っているように「情報はそれを必要とする人のところに集まる」という感じです。

この言葉に(偉そうですが)足りないものを付け加えるとしたら、「情報は自分から近づいていく人のところに集まる」と言えるでしょうか。例えば吉村さんは、大津事件(日本訪問中だったロシア帝国の皇太子ニコライが、日本の巡査に斬りつけられた事件)を題材にした小説を書こうとしていた時の話として、こんなエピソードを書かれています:

長崎に行ってみよう、と思った。百年も前の警察関係の記録が残されているはずがないが、ロシア皇太子上陸という歴史上の事柄であるので、史的観点から保存されているかもしれない。現存する確率はほとんどないに等しいが、ともかく行ってみるべきだ、と思った。

そして長崎県立図書館に赴いた吉村さんは、願っていた資料を見つけることになります:

資料課の方に頼んで閲覧させていただいた私は、動悸が高まるような興奮をおぼえた。それは私が、あって欲しいと願っていた記録であった。

このようなことを、私は何度か経験している。地方に資料を探るために出向いてゆくと、私がくるのを待っていたかのように、望んでいた資料が顔をのぞかせている。この日も、その文書があたかも偶然のごとくケースの中に置かれていたのだ。

実際、『史実を歩く』の中には似たようなエピソードがいくつも登場し、吉村さん自身「現場に赴くこと」の重要性を訴えています。中には新資料を発掘するだけでなく、一般に正しいと思われていた資料の誤りを見つける、などということも。

インターネットの時代、情報は簡単に手に入るような錯覚を覚えます(僕も偉そうなことを言えた立場ではありません)。しかし「本当の意味で情報を探すとはどういう意味か」「ネットでは見つからない情報を手にするにはどうすれば良いか」といった重要な点を、本書は吉村さん自身をモデルにすることによって、読者に教えてくれているように感じました。逆にネットを自在に活用して情報収集している人ほど、この本から得られるものは大きいのではないでしょうか。

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