ガラパゴス化論の深層
日本独自の仕様や習慣が蔓延し、いつの間にかグローバル・スタンダードから乖離してしまうという「ガラパゴス化」の問題。一言でイメージしやすい上にインパクトもある言葉で、最近よく使われるようになりました。個人的にも引用する機会が多いのですが、実際のところ、この言葉が当てはまる状況はどれほどあるのでしょうか?
例えば最近、お馴染み池田信夫先生がこんな記事を書かれています:
■ ガラパゴス化が進む日本のウェブ (Ascii.jp)
欧米の新聞社サイトは無料化の方向に進んでおり、記事にパーマリンクを適用することも普通に行われているというのに、日本の新聞社サイトは「有料のデータベースサービスを守る」という観点からパーマリンクの導入は行われていない。さらに日本のSNS、SBM上では「欧米のように」政治経済問題が討議されることはなく、携帯サイトが異常な人気を誇っている――確かにそう言われると、日本のウェブは「ガラパゴス化」が進行しているような気になります(日本だって政治経済問題を語るブロガーは多いじゃないか、ケータイが人気なのは社会的要因もある、という反論はひとまず置いといて)。しかしこの議論は日本の独自な点を挙げているだけで、他国の状況については何もわかりません。例えばフランスや中国、サウジアラビアや南アフリカのウェブは、すべてグローバル・スタンダード(?)に合致しており、ここまで乖離があるのは日本だけなのでしょうか?
例えば欧米間でもウェブサイトに対する文化的な相違があり得ることを、『ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?』のあとがきで訳者の佐々木勉さんが指摘しています:
あとがきの紙幅を借りて、訳者として気づいた点ないし感想を簡単に記しておきたい。まず、訳者が本書の前に取り組んだ『Google との闘い』(ジャンヌネー著、岩波書店)でもそうだったが、本書も体系性・階層性の欠如を問題視している。これは、欧州(英国を除く)とアメリカの考え方の相違から生じているのではないだろうか。19世紀にアメリカを観察したトクヴィルは、『アメリカのデモクラシー』(松本礼二訳、岩波文庫)の中で、『体系の精神、習慣のくびきから脱脂、家の教えや階級の意見、いや、ある程度までは、国民の偏見にもとらわれない。伝統は一つの情報に過ぎぬとみなし、今ある事実は他のよりよいやり方をとるための役に立つ研究材料としか考えない」(第二巻上、17ページ)と述べている。これ以外の箇所も含めトクヴィルのアメリカ観察は、本書執筆者たちやジャンヌネーがウィキペディアそしてグーグルに向けた視点と大いに共通する。そしてトクヴィルの指摘するアメリカの精神は、二世紀近くもたつが、ウィキペディアによって体現されているかのように思える。したがって、体系性・階層性の欠如という指摘は、ウィキペディアの問題というよりも、以前から存在する米欧の文化的相違と言ったほうがいい。フランス人からすれば体系性の欠如は大きな問題だろうが、アメリカ人からすれば、むしろ体系についての寛容さ(欠如)がウィキペディアだけでなく、例えば、英語の豊かさや英米法の柔軟性をも生み出していると主張するだろう。
ちょっと長い引用になってしまいましたが、「欧米」という言葉で括ってしまうことの危険性が再認識できると思います。アメリカ的なウェブから乖離しているのが日本だけなのか、きちんとした調査が必要でしょう。
と、ここで客観的なデータをお見せできればいいのですが、あいにく僕は都合の良い資料を持ち合わせていません。また英語以外の言語には疎いですから、フランス語や中国語、アラビア語で書かれたウェブを自在にサーフィンする、などということも難しい状況です。さらに日本語ですら(PCユーザーにとっては)把握しづらいと言われるケータイウェブの世界を、各国別に調査するなどほぼ不可能――しかしこれまで、世界中のウェブ/ケータイウェブをきちんと調査・比較した上で「日本はガラパゴス化している」と議論した記事がどの程度あったでしょうか?
日本人は「日本は特殊な国だ」と言われるのが好きなような気がします。例えば書店に行けば、「日本的な慣行が日本をダメにしている」「いや企業の競争力の源泉だ」と議論する本は山のようにありますし、欧米と比較して「~な○○(他国の名前)、~な日本」と一刀両断する文化論を掲げる本もあります(おっと、これも他国の状況と比較してみなければいけませんが)。「日本は世界とこんなに違う」と言われてしまうと、「なんとなくそうかな」と無批判にそれを前提としてしまい、そこから議論を始める傾向にあるのではないでしょうか。「日本はガラパゴス」と言われたら、ガラパゴス化の是非を論じる前に、少なくとも「じゃあ外の世界はどうなってるの?」「他にガラパゴスは無いの?」と考えてみなければならないと思います。