なぜ自動車が爆弾になるのか
読売新聞の書評欄を見て、ずっと気になっていた本『自動車爆弾の歴史』を読了。「知らない人に見られたら確実に危険人物だと思われるな」とドキドキしながら持ち歩いていたのですが、別に爆弾テロを推奨する本ではありません。「自動車爆弾の歴史」というユニークな視点から、都市で起きるテロリズムの本質を考える本です。
本書で「自動車爆弾の第一号」とされるのが、1920年9月にニューヨーク・ウォール街で起きた爆破事件。イタリア系移民のアナキスト、マリオ・ブダが馬に引かせた四輪荷車(!)にダイナマイトを詰め、ウォールストリートとブロードストリートの交差点で爆破させたという事件でした。爆発による死者は40名で、負傷者は200名以上。この事件を皮切りに、イラク戦争後のイラクにおける爆弾テロまで、世界中で起きた悲惨な自動車爆弾テロが次から次へと描かれます。さらに自動車爆弾はごく簡単な知識で製造可能なこと、現代の都市には爆発に対して脆弱な部分が生まれてしまうこと、従ってどんな手段をもってしても自動車爆弾を完全に防ぐことはできないことも。
それでは私たちはこれからもずっと、自動車爆弾の恐怖におびえて暮らさなければいけないのでしょうか。著者のマイク・デイヴィスさんの主張は、最終章で登場する以下の引用(北アイルランド警察庁の上級職員が、北アイルランド紛争に関して残したコメント)に集約されていると思います:
北アイルランド紛争の期間全体を通して引き起こされた損害や死の大部分は拳銃やライフル銃によるものでも、自家製の迫撃砲によるものでも、ましてやセムテックス爆弾によるものでもなかったのです。それは中学校の化学知識を持った人間ならば誰によっても製造されうる化学肥料爆弾によって引き起こされたのです。ファーマナ州の牛小屋で、シャベルを持った二人の人間が1000ポンド(約454キログラム)もの爆弾を製造することができるのです。もし計画が何らかの理由で中止されなければならないとしても、彼らは12時間以内にすべての爆弾を武装解除することができるのです。しかし武装解除の対象はそのシャベルではありません。武装解除する必要があるのは精神なのです。
デイヴィスさんは単に、自動車爆弾の恐ろしさを描いたわけではありません。それが爆発し、大勢の人々の命を奪うまでに、どんな流れがあったのか。背景にどんな問題があり、何が人々の対立を生んだのか。本書を通じて描かれているのは、自動車が爆弾となる本当の理由です。その解決(精神的な武装解除)が無ければ、問題は終わらないのだという事実を本書は突きつけてきます(それがより一層恐怖を感じさせるのですが)。
本書のテーマをもう少し広げるならば、それは「手段にのみ注目してしまうことの愚かさ」だと思います。「自動車が爆弾として使われた、なら検問所を設置して摘発しよう」などというシチュエーションは、幸いにして(今のところ)爆弾テロどは無縁の私たちにはピンと来ませんが、それでは「ケータイ用のウェブサイトが犯罪やイジメに使われた、ならフィルタリングして子供達がアクセスできないようにしよう」という話ではどうでしょうか。目の前にある衝撃的な出来事にとらわれてしまうのではなく、「なぜ犯罪が起きたのか」をもっと広い・深い視野で考えることの重要性を、『自動車爆弾の歴史』は教えてくれていると感じました。