カトリック教会化する Google
はてなブックマークで話題になっていた「Googleは『政府』になるつもりかもしれない」という記事を面白く読みました。先頃行われた、米国での700MHz帯の周波数オークションの結果を読み解く内容なのですが、
そして僕は今、「Don't be Evil」というフレーズは「政府」にこそ似合う言葉だと思っている。
この一文に反応した方が多かったようです(僕もその一人)。確かに Google は、自分たちが提供しているサービスがこれからの社会/市民生活にとっていかに重要なものとなるのか、それを理解しているが故にこのモットーを固持しているのかもしれません。検索などは既に「公共財」とすら呼べる存在ですしね(だから「情報大航海」のような国家プロジェクトまで生まれているわけで)。
この記事を読んで、以前新聞の解説記事で読んだローマ・カトリック教会の歴史を思い出しました。うろ覚えな上に歴史の知識は詳しくないので、話半分に聞いて欲しいのですが、だいたい以下のような内容でした:
- 中世の時代、カトリック教会はローマ教皇が絶大な権力を持つなど、世俗権力に対峙する程の力を持っていた。
- それは実質的に、カトリック教会が行政機関のような役割を担っていたからだ。
- 例えば、教会は子供が生まれた時には洗礼の儀式を取り仕切り、誰かが亡くなればその儀式も行う。そしてその記録が残されるのだが、これはまさに現代で言う住民管理である。
- また当時の司祭は知識人であり、一般の人々が手に入れることのできないスキルを持っていた。
- 一方の世俗権力このようなシステム・人材を持たず、教会の持つ「官僚組織」に依存するという一面があった。
繰り返しますが元記事をスクラップするのを忘れてしまったので、情報が誤っている可能性も大きいということをお断りしておきたいのですが、とにかく中世には「教会には行政能力があり、それを持たない世俗権力を補うという構造があった」と捉えることができるそうです。ヨーロッパの歴史を学んでいると、「なぜ宗教団体が国家権力に肩を並べるほどの力を持てたのだ?」と不思議に思うことがありますが、こういった背景があるわけですね。
無知を承知でさらに突っ走ってしまえば、中世におけるカトリック教会の存在と、現在の Google の姿を重ね合わせることができるかもしれません。私たちの日常生活において、検索やメール、ワープロや表計算ソフトといったものは欠かせない存在になりました。それらは電力や水道のように、誰もが使えるように公的に保証されるべきサービスだ、と考えてもそれほど行き過ぎではないでしょう。しかしそれを現在の行政機関に期待することはできない――ところが Google はそれらを無料で提供しており、近未来における行政の姿というものを考えた場合、実質的に Google は既に政府の一機能を担っているのだ……と言ってしまうのは大胆過ぎるでしょうか。
ITの世界だけを考えた場合、政府が提供できるモノと、誰にとっても必要なモノの間には既にギャップがあります。意図的にかどうかは別にして、Google がそのギャップを埋める存在になりつつあるのは事実でしょう。例えばある人物が生きているのかどうかを知るのに、行政に届け出られた記録からではなく、Gmail の送信記録から判別する……なんて事態も起きてくるかもしれません。