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目の前の相手は、どんな世界に住んでいるのだろうか?

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生まれた時代や場所が違えば、考え方も違う。そんな当り前のことは、つい忘れられてしまうようです:

白黒テレビなんて見たことがない20代、分かり合うカギはどこに (NBonline)

ボストンコンサルティンググループの日本代表、御立尚資さんによる記事。冒頭でこんな体験談を書かれています:

昨年、立て続けに複数の方から、ここ数年の新入社員、すなわち20代前半の人たちについて同じようなことを聞かされた。

いわく、「必死になって働き、会社を成長させることこそが、結果的に自分と家族の幸せにつながる。あるいは、日本の社会をより良くしていく、ということにもつながっていく。こういう当たり前のことが、全く通じない」「そもそも、何かに燃えるということがない。一体、どう動機づければ頑張ってくれるのか、途方に暮れている」などなど。

御立さんはこの問いに対し、御立さんの世代(50代の人々)と20代前半の人々では、育ってきた環境が全く違うことを指摘します(それが「白黒テレビなんて見たことがない」という表現になっているわけですね)。そして、それが両者の社会認識の差となって現われ、両者が分かり合うのを難しくしているのだ、というのが答え。この点についてはまったく同感です。

ただ、それは50代と20代の間だけでなく、もっと近い世代の間でも起きている話ではないでしょうか。極端なことを言えば、同じ世代の中であっても、どんな環境で育ってきたかで考え方は大きく違うでしょう。また職業の違いや性別の違い、読んでいる新聞や好みのサイトの違いなども影響を及ぼしてくるはずです。

70年以上も前に出版された生物学の本ですが、『生物から見た世界』という書があります。これは「環世界」という概念を説明したもので、種によって世界の認識の仕方はまったく違う、従って個々の種はそれぞれ違った世界(=環世界)に住んでいるのだ、ということを解説しています。ここで注意すべきは、この本が主張しているのは単に「視点が違う」という話をしているのではないという点。例えば人間のように五感で世界を認識する生き物と、コウモリなどのように聴覚に頼っている生き物では、物理的に同じ空間に立っていたとしても、それぞれに見える世界はまったく異なっているわけですね。それに気づかずに、例えば明るい日の光の下にコウモリの好物(それが何かは想像にお任せします)が置かれているのを見て「何でコウモリは目の前に食べ物があるのに食べないんだ、バカだなぁ」などと考えてしまうのは間違っているわけです。

しかし人間は、どうしても「自分に見える世界と同じ世界に、他人や他の動植物も生きている」と考えてしまいます。「この業界は将来性がないのに、どうして学生は進みたがるんだろう、バカだなぁ」とか、「なんでこんな安物に、みんな高いカネを払ってるんだろう、バカだなぁ」といった感じですね。しかし実は、バカにしている相手は違う世界に生きている――その世界ではある業界が燦然と輝いていて、安物が貴重な宝物として存在している、のかもしれません。どちらの認識が正しいのか、それとも間違っているのかはまた別の問題ですが、兎角「相手は自分と同じ土俵に立っているのだ」と思いこみがちです。

それを防ぐには、相手がどんな世界に住んでいるのか、それを理解するように努めるしかありません。御立さんも、このように書かれています:

世代の異なる同士が、共通の土俵に立ち、前向きの議論を成り立たせていくためには、「無意識のうちに前提としてしまっている感覚」の相互理解が必要だ。極めて原始的なやり方だが、お互いの人生の軌跡と時代の変化について、(場合によっては食事でも共にしながら)語り合うだけでも、この相互理解は相当進む。実際に何度かやってみたが、その度にお互いにとっての発見があるのが新鮮だった。

幸運なことに、人間には想像力があります。どんな生き方をしてきたか、いま周囲をどう捉えているかを尋ねることで、相手の住んでいる世界が見えてくることでしょう。それは自分とは明らかに異なる人物、例えば幼児や外国人の人々に対して、普通に行っていることのはずです。「相手は自分と同じ成人で、しかも同じ業界、同じ会社にいる。住んでいる世界は同じはずだ」と勝手に考えるのではなく、どんな相手にでも「この人はいま、どんな世界に住んでいるのだろうか?」を想像するように心がけなければいけないのではないでしょうか。

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