日本は捨てたのか、捨てられたのか
なんとなく書店で気になり、『日本を降りる若者たち』を買って読んでみました。いまは子供が小さいこともあり、海外旅行など無縁の生活を送っているのですが、こう見えても(?)以前はバックパッカー。それほどディープな旅はしていなかったので、チョイ悪ならぬ「チョイバックパッカー」でしたが、それでも重い荷物を背負ってあちこち出かけていたものです。そのため「ああ、海外を旅して日本が嫌になってしまった人々の話なのだな」と思っていたのですが、その姿は大きく異なりました。
本書は日本を降りて、つまり日本での生活を捨てアジア諸国(主にタイ、また日本国内ですが沖縄も含まれます)で暮らす人々を追ったドキュメンタリー。例えば日本でフリーターとして数ヶ月働き、稼いだカネで数ヶ月間タイで何もせず暮らす――などといった人々の生活が描かれます。彼ら(主に20代~30代の若者ですが、60代を超える人々も登場します)が日本を捨てた理由は様々ですが、登場するのは何かしらの理由で日本社会に適合できなかった人たち。つまり始めに理想郷(海外)ありきではなく、日本が嫌という気持ちが出発点になっているわけです。本書はそんな状態を「引きこもり」になぞらえて「外こもり」と呼んでいるのですが、まさに「こもる」のが国内か国外かの違いだけで、彼らの間には共通点が感じられます。
本書は統計データを元に全体像を描くようなタイプではなく、個々の人々の実像に迫るという手法を取っているので、ここで取り上げられた人々が典型的な「外こもり」かどうかは分かりません。しかし巻末にある次の言葉に共感を覚えました:
南北格差は、地球規模の経済問題になって久しいが、いま、北に広まりつつある格差社会についていけない人々が、南の国々に救われていくという構図が生まれている気がする。厳しく不寛容な色合いを強める北側の社会のなかで歯をくいしばって生きるぐらいなら、南の国で節約しながら暮らした方が楽じゃないか……。北側社会で恵まれない日々をすごす人々は、南をそんなふうにもとらえているのだ。
日本の社会について行けなくなった人々の「受け皿」としてのアジア諸国。グローバリズムが進み、人が自分の行きたい場所・住みたい国を自由に選べるようになった結果だと肯定的に捉えることができるかもしれませんが、僕には何か日本社会の包容力がなくなった結果のように思えました。本来ならば、やむを得ない理由で落後していく人々を救うのも社会の役目でしょう。テレビや新聞に登場するような「社会の最前線」から降りたら、国内にはどこにも居場所がなかった――というのでは、捨てられたのは日本という国の側であると考えることもできるのではないでしょうか。
もちろん現在の社会の価値観について行けない人々を、「考えが甘い」「怠け者」と見なすこともできます。本書も決して彼らに同情するのではなく、例えば「タイで頑張れない人は日本でも頑張れない」のような言葉も登場するので、むしろ彼らのような生活スタイルを問題視しているとも言えるでしょう。しかし彼らを責めるのであれば、彼らを生んだ日本社会も非難されるべきです。少なくとも「出たい奴は勝手に出て行け、出て行った奴のことは知らない」という姿勢ではなく、彼らもまた日本社会の延長なのだと捉え、見つめていかなければならないと感じました。