専門家は、データを活用できない。
『その数学が戦略を決める』を読了。既に大勢の方が書評を書かれているので、お読みになられた方も多いかもしれません(かく言う僕も、ネット上で書評を読んで買おうと思った一人)。
本書の内容を一言で示すと、「データの勝利」といったところでしょうか。回帰分析や無作為抽出テストなどの手法を活用することで、データ分析から驚くような知見が得られることを解説しています。「データを分析すれば何かが分かる」というのは別に驚きでも何でもないのですが、デジタル化によるデータ蓄積・活用の容易化、およびコンピュータによる解析の容易化により、専門家の分析を上回るような結果を得ることが実用化されつつあるのだ――という点が、様々な実例と共に紹介されています。
ただし、この本の魅力は「データ分析ってすごいよね!」で終わっていないところ。そこから派生する問題として、2つの疑問が投げかけられています。1つはご想像の通り、プライバシーの問題。これまでの想像を超えるようなデータ収集・解析が可能になったことで、個人のプライバシーがより簡単に暴かれる危険性を示唆しています。
そしてもう1つが、「専門家(人間)はデータ分析を活用できるか」という問題。これについては象徴的な例が紹介されているので、長いですが以下に引用してみたいと思います:
医学治療の実証試験は100年以上も前からある。1840年には、偉大なオーストリアの医師イグナッツ・ゼンメルワイスがウィーンの産院について詳細な統計調査を完成させている。ウィーン中央病院の助産部門における助教授だったゼンメルワイスは、検死解剖室を出てきたばかりの医師見習いが検診した女性は死亡率がきわめて高いことに気がついた。友人にして同僚のヤコブ・コレチカがメスで手を切って死んだのを見て、ゼンメルワイスは産褥熱が感染すると結論づけた。そして診療所の医師や看護婦が、患者を診る前に塩素入り石灰水で手を洗えば、死亡率は12パーセントから2パーセントに下がることを発見した。
この驚異的な結果は、やがて病気の原因が細菌だという理論のもとになるのだが、猛反発をくらった。ゼンメルワイスは他の医師たちにバカにされた。なぜ手を洗うと死亡率が減るかという説明を十分に提示していないから、その理論は科学的根拠を欠いていると考える人もいた。医師たちは、患者を殺しているのが自分たちだと認めるのをいやがった。そして1日に何度も手を洗うのは、自分たちの貴重な時間の無駄だと文句を言った。やがてゼンメルワイスはクビになった。そして神経衰弱となり、精神病院に入れられて、そこで47年の生涯を閉じた。
今日であれば、医師が手を洗わないなんて考えられないことでしょう。しかし1840年当時は、「手を洗う->死亡率が下がる」というデータが存在しても、因果関係が不明だというだけで手洗いが退けられていたわけです。これは極端な例かもしれませんが、同じような「データ分析の結果を受け入れられない専門家たち」という話が、本書ではいくつも取り上げられています。
この話を、私たちは笑い飛ばすことができるでしょうか?あなたが何かの専門家だとして、「自分が教わってきた知識によれば、A=Bだ。しかし目の前のデータは、A≠Bと言っている」という状況に直面した場合、「正しい」として教えられてきた専門知識の方を信じるでしょうか、それとも因果関係は不明だけれど、データが教えてくれた知識の方を信じるでしょうか。仮に後者を選択すれば、世間は「データが正しい結論を教えてくれるなら、専門家なんていらない」と考え、あなたの権威が揺らいでしまうかもしれません。それでも正しい選択を行うために、データが示した道を取ることができるだろうか――と言われたら、恐らく僕なら尻込みしてしまうと思います。
もちろん過去の知識と異なる結果がデータ分析から得られた場合、まずは分析の方を疑うのは当然のことです。しかしその疑いが、「専門家である自分の権威を危うくしたくない」という邪な考えから生まれたものではないのか、不用意に結論を長引かせてはいないかと考える必要はあるでしょう(実際、人々は自分の専門以外の分野ではデータ分析手法を取り入れることに寛大であることが本書では示されています)。またゼンメルワイスの例で言えば、追加の実験を行っている間にも「人を殺して」しまう恐れがあります。ある程度のタイミングで過去の自分を否定し、データ分析を活用できるか否かが、今後「専門家」が生き残っていけるかどうかを決めるのかもしれません。