あるバイオリニストの実験
最近、ストリート・ミュージシャンを見かけましたか?僕が最寄り駅にしている三鷹・吉祥寺でも、夜になるとあちこちで音楽を奏でている姿が見られます。「そういえばこないだ見たな」という方にもう1つ質問。彼らの中に、有名なアーティストはいませんでしたか?駅前ロータリーの片隅で、無心にギターを弾いていたのは山崎まさよしだった -- などということはありませんか?
そんなことがあるわけない、と思った方は、せっかくの機会をふいにされているかもしれません。今月の『COURRiER Japon』に、ワシントン・ポストが行ったある実験の記事が掲載されていました。それは「超一流アーティストに地下鉄の駅構内で(ストリート・ミュージシャンを装って)演奏させ、人々がどう反応するかを見る」というもの。選ばれたのは、グラミー賞受賞経験もあるバイオリニスト、ジョシュア・ベル。普段なら1分間で1,000ドルを稼ぐという彼が、350万ドルのバイオリンを本気で奏でたら、たとえ地下鉄構内といえども人だかりができるのではないか -- という実験です。
実験地に選ばれたのは、ワシントンDCにあるランファン・プラザ駅。場所柄、中級官僚の利用者が多いということで、クラシック音楽に対する理解も期待できそうです。実際、ワシントン・ポスト編集部では「教養人の多いワシントンだから、人だかりができてしまうのがいちばんの心配だった」そうなのですが……結果は「予想とはかけ離れた」ものでした。演奏者がジョシュア・ベルだと気づいたのは1人だけ。ほとんどの人は彼に目もくれず、足早に通り過ぎて行きました。43分間の「演奏会」で人々が投げ入れたお金の合計は、たったの(?)32ドル17セント。
この実験、試された通行人の方にも言い分があるかもしれません。通勤・通学で忙しい時間帯(実験は午前7時51分、ラッシュアワーの時間に開始された)に、ミュージシャンの音楽に足を止める余裕のある人がどれだけいるでしょうか。また地下鉄構内という日常の空間に、超一流ミュージシャンがいるなどと考える方がおかしいというもの。音楽を味わうには、それ相応の環境や雰囲気が用意されていなければ、という言い分もあるでしょう。
確かにそうなのですが、だとしたら、私たちは多くの「宝もの」を見過ごしているのではないでしょうか。豪華なホールを用意して、高い入場料を取れば「ここにあるのは宝ものですよ、さあ気づいてくれ」と言っているようなものです。そんなサインや標識が無ければ価値に気づけないようであれば、極端な話、価値を作っているのは「もの」ではなく、「サイン」の方だということになります。そんな勘違いや見過ごしを、知らないうちに犯してしまっているのではないかと感じさせられました。
ちなみにこの実験の中で、唯一反応が良かったグループがあったそうです。それは子供たち。通りかかった子供は全員、男の子も女の子も立ち止まってバイオリニストの方を見ようとした、とのこと。物珍しさもあったのかもしれませんが、それでも関心が向いたのであれば、宝ものに気づくチャンスがあったわけです。常に子供の気持ちを持ち続けるのは不可能ですが、たまには気持ちをリセットして、目に入るものすべてに興味を持つようにすることが必要かもしれませんね。