書評『路上から武道館へ』『路上シンガー宮崎奈穂子』
前回は、出版記念パーティに路上シンガーの宮崎奈穂子さんに来ていただいた話を書いた。この様子は、ご本人のブログにも少しだけ書いていただいた。そして今回は、彼女の著書から『路上から武道館へ』と『路上シンガー宮崎奈穂子』の2冊を紹介する。宮崎奈穂子さんの著書はもう1冊あるのだが、こちらは写真中心であり、タレント本としての要素が強いので除外した。
念のため断っておくが、別に私がファンだからというだけの理由で紹介するわけではない。一般書として「キャリアを求めた1人の人間が、何に悩み、何を行なったかを振り返る話」として読んで欲しいので取り上げる次第だ。
本稿の原型は、別の媒体に発表したものである(現在はサイトがなくなっている)。その時は「宮崎奈穂子の宣伝色が強すぎる」として大幅にカットされた。私自身は宣伝のつもりは全くないのだが、商業媒体はいろいろ制約があって難しい。今回は原文に加筆したものを掲載する。
『路上から武道館へ』と『路上シンガー宮崎奈穂子』には内容の重複も多いが、全体のトーンが違う。
『路上から武道館へ』は、プロとは言え、メジャーレーベルとは無縁の路上アーティストが、いかにして武道館コンサートを成功させたかを語る内容になっている。版元の中経出版はビジネス書を多く手がけているためか、サクセスストーリーや夢を実現する方法論としての側面が強い。中経出版内でもビジネス書扱いになっているそうだ。
一方の『路上シンガー宮崎奈穂子』は、彼女の生い立ちから、路上で歌うに至った背景などが、失敗談も含めて詳しく書かれている。こちらの版元は梓書院。扱うジャンルは幅広いが自叙伝などが多いようである。
最近の宮崎奈穂子は、就職活動中の学生に人気があるという。歌手という職業は、それほど一般的なものではないが、その過程はキャリアを求める多くの人の参考になるはずだ。
●目標を立てても、それにとらわれすぎない。
人間のキャリアの多くは偶然作られると言われる。目の前のことに全力で取り組み、できることをやっているうちにキャリアが自然と作られる。1つの目標に固執すると、かえってキャリア形成を阻害する。スタンフォード大学のクランボルツ氏はこれを「計画された偶発性理論」と呼んだ。意訳すると「頑張っていれば、偶然でなんとなかる」ということである。
クランボルツ氏によると、予想しない偶然的な出来事を活かすには以下の5つの要素が必要だという。
- 好奇心
- 持続性
- 楽観性
- 柔軟性
- 冒険心(リスクテイキング)
面白いことに、宮崎奈穂子にはこれらの要素がすべて備わっている。彼女は小学生の時に「歌手になる」という目標を立て、一直線に進んでいったように見えるが、著書を読むと案外寄り道の多いことが分かる。小学生のときは、合唱部とブラスバンド部の両方に所属していた。どちらかを選びなさいと迫る母親に対して「両方やる」ときかなかったという(好奇心)。
中学では吹奏楽部に入り、肺活量を付けようとサックスを担当したかったのに、担当したのはパーカッション。しかも最初の半年はメトロノームに合わせて1日3時間机を叩き続けたとある。もともと「同じことを継続する習慣があった」というが、本意ではないことをこれだけ続けられるのは普通ではない(持続性)。
後になって「この経験が基礎的なリズム感を養うことができた」と振り返るわけだが、当時は「なんでこんなことやっているのだろう、選択を失敗した」と思ったこともあるに違いない。しかし、ここで「歌手になるには無駄な作業だ」と思って、1日30分しか練習しなければ本当の無駄になってしまったかもしれない。3時間やったからこそ役に立ったと言える。
高校では弾き語りができるようになりたくて、ギターをマスターするために軽音学部に入ろうとしたら、マンドリン部に誘われ、そこでクラシックギターを弾いていたという(ギターとマンドリンはセットで演奏されることが多い)。
こうして列挙してみると「歌手」という目標から微妙にずれていることが分かる。本人は大まじめだったと思うが、知らないうちに「目標にとらわれすぎない」という原則を満たしていたことが分かる(柔軟性)。
●チャンスは前髪をつかめ
本書で一番驚いたのは、ろくに曲を作ったこともないのに「作詞・作曲ができます」とプロフィールに書き、「月末までに何曲作れますか」との質問に「10曲」と答えた無謀さである(楽観性と冒険心)。結果的に約束通り10曲できたことにはもっと驚く(『路上から武道館へ』によると最終的にできたのは11曲、後に本人にお伺いしたら締め切り後にもう1曲できたらしい)。人間、やる気になればできるものである。
会社でも、部下を育成するときに「ストレッチ目標」といって、本人の能力よりも少し高い目標を掲げることがある(決してパワーハラスメントではない)。しかし、自分からストレッチ目標を設定できる人はなかなかいない。つい楽な方に流されるためだ。まだデビュー前で、失うものがなかったとはいえ、大胆な行動である。
その後、事務所の方針で路上ライブを行なうように言われる。これも全く想定外だったそうだが「とにかくなんでもやってみよう」と受け入れたそうだ(柔軟性)。
事務所と契約し、両親と一緒に先輩歌手の路上ライブを見たときの台詞も面白い。他人事ではなく、自分のこととして路上ライブを見た感想は「こういうことをやるのか......」というネガティブなものだったのに、両親から「オマエは本当にこういうことがやりたいのか?」と聞かれて「路上ライブをやりたい。こういうことがやりたかった」と即答してしまったという。「神様からあたえられたチャンスを無駄にするわけにはいかないと思ったんです」と著書にある。
武道館コンサートは、所属事務所が「1年間でサポーター(ファンクラブ会員)を1万5,000人集めたら武道館を予約して単独ライブを行なう」という企画に宮崎奈穂子が乗ったものである。ノリとしては、日本テレビの番組「笑点」で企画された「座布団が10枚になったらレコードレビュー」みたいなものであるが(その時の企画で実際にレコード出したのが山田隆夫の「ずーとるび」)、レコードを出すのとライブを行なうのでは難しさが全く違う。CD制作は、おそらく初回プレスが数千枚から数万枚で、これを長い時間かけて売れば良い。武道館ライブは1回の同じ時間に数千人を集める必要がある。
著書によると、武道館挑戦を決めた頃「渋谷DESEO(ライブハウス)のワンマンライブがソールドアウトで感動した」とある。調べたら渋谷DESEOの定員は250名。武道館はその60倍である。これは、木造2階建家屋とスカイツリーの高さの比率に匹敵する。同じ工法では不可能だ。
●失敗から成長する
もちろん失敗もある。宮崎奈穂子の所属事務所(Birthday Eve)は期限を決めてCD販売の目標枚数を設定する。2010年末から2011年にかけては「CDシングル新譜を50日で5,000枚」だった。実績を考えると少し背伸びした目標だったが、全く不可能な数字ではなかった。しかし結果は4,700枚足らず。1日100枚のCDを売れない人間が、武道館を満席できるのだろうかと落ち込んだ。
しかし、そこからの巻き返しが素晴らしかった。実際に何をしたのかはぜひ著書を読んでいただきたい。要するに「武道館公演という、普通でないことをするには、普通のことをしていてはいけない」ということである。物理学者のアインシュタインも「今までと同じこと繰り返して、異なる結果を期待するのは狂気である」と言っている。
「失敗は失敗として、次に何をするかが大切だ」というのは部下を指導する上でよく使う言葉であるが、実践できている上司も部下も少ない。いつまでも失敗を責める上司、次の手が思いつかない部下、これでは失敗から学べない。
この時の落ち込みから、改めて歌手になった初心を振り返ってできた曲が『路上から武道館へ』である。あまりにストレートすぎる歌詞には賛否両論あるだろう(本書には歌詞も掲載されている)。「プロのクリエーターは、テーマをもっと丁寧に隠すべきだ」と言う人もいるはずだ。そういう意見はよく分かる。宮崎奈穂子自身、これをそのまま歌っていいのだろうかと躊躇したと書いている。しかし、このストレートさが彼女の持ち味であり、人気の秘密なのだ。路上でこの曲を聴きながら本当に涙を流す人が多いという。
そして、企業回りが始まった。会社の朝礼、運動会、講演会など、今までとは全く違う場に出るようになり(柔軟性)、武道館のアリーナ席が完売した。
今でも講演活動はかなり多い。学校に呼ばれることもあるそうである。路上シンガーの道を選んだ人の話について、就職内定率を上げたい学校や、安定性を求める親がどう思うかは分からないが、学生には人気があると聞いた。
●支持する人がいる
『路上から武道館へ』の最初の山場は、最初に路上に立ったときの様子である。誰1人立ち止まらず、最後にやっと1人だけ「いい歌だね」と言ってくれたという。この一言で、彼女は路上ライブを続けることができた。大勢の支持がなくても、1人でも喜んでくれる人がいれば頑張れる経験を持った人は多いと思う。そもそも彼女が本格的に歌手を目指したのも、高校3年生の文化祭で歌ったら「いいね」と言われたからだそうである。
仕事は、自分のためにするものではなくて、他人のためにするものである。だいたいにおいて、人間は自分の利益よりも、他人に役に立つことで強い満足感を得るようにできている。自分のためにはできなくても、他人のためならできることは多い。『路上から武道館へ』の最後に登場する「最初は私だけの夢だった、今は私だけの夢じゃない」というフレーズは印象的だ。
●おわりに
本書は武道館公演の3週間前の内容で終わっている。実際の結果は、入場者6,000人。満席で1万5,000人らしいので、半分にも満たない数ではある。しかし、そもそも1万5,000という数字は四方から観戦する場合の席数で、音楽興業では無理だという話も聞いたから、興行的な成否は私には分からない。しかし、路上を再現した舞台、それを活かした演出は素晴らしく、多くの新しいファンを獲得した。
繰り返しになるが、本書は「1人の歌手が武道館公演を実現する話」ではなく「キャリアを求めた1人の人間が、何に悩み、何を行なったかを振り返る話」として読んで欲しい。きっと得るものがあるはずだ。
なお、本稿の初出媒体では宮崎奈穂子さんについて何度も書いていたら「いい加減にしてください」と怒られたので、しばらくは書かない(たぶん)。もし興味のある方がいらっしゃったら別ブログ「ヨコヤマ企画(分室)」を参照して欲しい。
宮崎奈穂子さんは、歌い終わったらいつも深々とお辞儀をする。たまにキーボードが鳴る。