【民事再生】山田眞次郎(インクス創設者)
私は、大学を卒業して三井金属に就職し、自動車用ドアロックの設計に従事した。
私が設計したドアロックが、クライスラーに全面採用されることが決まり、37才の時、デトロイト支店長に赴任した。クライスラーとは1000億円の契約を締結した。
1989年11月、デトロイトで開かれた「オート・ファクト・ショー」という機械展で、初めて光造形機(現在の3Dプリンター)に出会った。
3時間見ていて、設計だった私は、「この装置があれば、熟練した職人が2週間ほどかかっていたドアロックの試作が、一晩でできてしまう。このことを早く日本に知らせないと、職人に頼っている日本は負ける」と思い、その場で、17年間務めていた三井金属を退職する決意をした。
翌年の1990年4月に三井金属に辞表を出し、日本に帰った。40才だった。
1990年7月に(株)インクスを設立した。インクスは、世界で初めての3Dプリンターで試作を作るサービス・ビューローとしてデビューした。
インクスは、試作事業、3D設計事業、金型事業、工程短縮事業など次々と事業を拡大し、順調に成長した。2007年には、連結で180億円ほどの売上になった。
2006年には、できたばかりに新丸ビルの最上階を含む3フロワーを借り、オペラシティーから本社を移転した。家賃は年間15億円。
インクスは、設立した90年11月から単月黒字となり、17年間黒字を続け、まさに順風満帆だった。
そこに、2008年のリーマンショック。
その煽りを受けて、その年、既に受注が決まっていた2社40億円のコンサルティングが飛んだ。これじゃあ家賃は払えない。
三菱地所に、新丸を退去すると通告をした。
しばらくして、三菱地所からきた返答は、契約期間の残りの家賃200億円ほど払えとの知らせだった。
定期借款だった。
200億円は払えない。さりとて、そのまま家賃を払い続けてれば、いずれ資金ショートで倒れる。
2009年2月、私は、45億円の現金を持ったまま、民事再生を決断した。
当時の従業員は1400名。私はどうなってもかまわないが、従業員の家族を含め4500人の生活を守るためだった。
後になると、他にいくらでも方法はあったという人もいる。
多くの人に迷惑をかけたが、私の決断は、そうだった。
民事再生の処理が完全に終わったのは2010年1月である。ほぼ1年かかった。
結局、私は、責任を取って自分の会社を辞めることになり、私は無一文になった。
私には、子供が3人いる。長女の夫である義理の息子も、次女も、長男も、皆、インクスに勤めていた。
もはや腑抜けになった私に代わって、再生処理は、まだ20代だった長男が先頭に立ってやってくれた。
再生処理が終わった時点で、私も含め全員が職を失った。
2010年から、家族全員無職である。私は60才だった。
義理の息子は、そのまま米国に残り、すぐに自分で起業をした。
次女智恵は、自分で就職口を探した。
とにかく、お金がない。
長男と私は、一緒にインクスを創業し、一緒にインクスを首になり、三井金属時代から30年間も一緒に仕事をしてきたS氏が起業した会社に、お世話になり、細々と暮らし始めた。
人生で初めて虚無感に苛まれる毎日だった。
次女智恵は、大手企業に就職し落ち着いてきていた。
1年くらい経ったある日のことである。
智恵が、「お父さん、このノートに、今日嬉しかったことを、毎日、3つ書いて」と1冊のノートをくれた。
嬉しいこと等など、何もなかったが、毎日、何かを見つけて書き続けた。
1年後に、智恵にノートを見せながら、
「ノートをもらって書き続けているけど。何も、嬉しいこことはなかったから書くのに苦労してるよ。
ほら、最初に書いてあるのが、これだからね。こんなことしか、嬉しかったって思うことがなかったんだヨ」
そこに書いてあったのは、
『夕方、車で渋谷に息子を迎えに行った。地下鉄の階段から上がってきた息子が、笑顔で車の方に走ってきた』
それを見て、智恵は、
「お父さん、人生で最も大切なことに気付いたじゃない。
ハーバードで、ハーバードのMBAを卒業した人達の人生を何十年も追いかける研究をしているの。
そのなかで、大成功した人が、人生の終わりを迎えたころに、『あなたの人生で、心残りは何ですか?』って質問に、8割の人は、
『家族と過ごす時間をもっと持てば良かった』って言ってるの。
お父さん、やっと、大切なことが気付けたね」
私の人生は、ずっと働き詰めだった。
家族が暮らせるお金を持って帰るのが私の役目だと思っていた。
若いころは、1月4日から出勤し4月29日まで、一度も休まなかったことも、何度かある。
家族との時間を意識したことはなかった。
妻や、子供たちの人生を翻弄し、どん底に落とし、どれだけ心配をかけてきたのだろう。
息子の笑顔・・・、確かに人生で一番大切なことだった。
それから、もっと真剣に、嬉しいことを見つけようと、心がけた。
1年もすると、ノートには、嬉しいことでいっぱいになっていた。
そこ頃には、虚無感は消えて、私は、明るくなっていた。
明るくなるとチャンスが訪れる。
2014年、長男と私は、仲間と一緒に、植物工場ビジネス ㈱プランテックスを始めることになった。
それからら、2年ほど経ったある日の夕方のことである。
智恵がまたノートをくれた。今度は、モレスキンの立派なノートだった。
「お父さん、嬉しいことは、もう見つけられるようになったでしょ?
今日からは、このノートに、これは、今日のチャンスだなって思うことを3つ書いて」
その夜、書こうと思っても、チャンスねぇ、何もなかったなぁ、、、、
そうだッ!、今朝、講演したとき、名刺交換をした人に、お礼のメールを送ろう!
そのメールを書いたことを、今日のチャンスにしようと思った。
その日のチャンスは、以下の3つ
①A氏の紹介で、今朝、久しぶりに講演をした
②B氏にお礼のメールを書いた
③C氏にお礼のメールを書いた
(B氏も、C氏も、大手企業の経営企画部長だった)
チャンスを書けと言われなければ、
それまでの私は、講演で名刺交換をした人に、お礼のメールは書いたことがなかった。
翌日、B氏からも、C氏からも返事が来た。
私は、「自分は今、植物工場をやっているから、ぜひ見に来て欲しい」と返信した。
B氏からは、3日後に行くとの返事が来た。
3日後に会うと、その場で、B氏の会社の経営企画のコンサルティングをさせていただくことが決まった。
とりあえず週半日、3か月。久々の収入、嬉しかった。
もし、あの日、お礼のメールを書いていなかったら、B氏とは、一生縁は無かったのに。
既に「嬉しいことノート」で、明るくなれた実績があったが、チャンスが、こんなにすぐに効くとは、これは、効果がありそうと感じた。
しかし、日常の中で、今日の3つのチャンスと言われても、なかなか見つけるのが難しいと、智恵に相談した。
「お父さん、今日、1日、色々なところで、赤いモノをいくつ見た?」
「思い出せない。」
「看板の中や、走っている車の色、服の色、いくらでもあったはずよ。何故思い出せないかというと、赤いモノを意識して見ていないから見えないのよ。明日、今日見た赤いモノを3つ書けって言ったら、すぐ書けるよ。チャンスも同じよ。お父さんの一日に起きる全ての出来事を、これはチャンスかなって意識してみれば、赤い色と同じで、いくらでも見つかるはずよ。
たった1本のわらしべが、ミカンになり、反物になり、馬になり、大きな屋敷になるっていう『わらしべ長者』の話があるでしょう。
あれと同じで、シンデレラのように、いきなりキラキラのチャンスなんて、天から落ちてこないのよ。
最初は、わらしべを集めることから始めるの。
返事のメールを書いたら、返信がきて、会社に来てくれて、コンサルまで決まったんでしょう。
最初の名刺交換がわらしべよ。いや、それより、講演をさせてくれた人がわらしべかな」
その話を聞いてから、今日の出来事の中から、「わらしべ」はどれだろうと探すようになった。
毎晩、今日の「わらしべチャンス」を書くのが楽しみになる。
B氏の会社とのコンサルティングは、3か月で終わった。
私が、至らなかったのだろう。
ところが、数か月後に、B氏からFBの友達リクエストが来た。
私は、何故今頃?と思いながらも、これは、新たな「わらしべ」かなと感じ、
FBメッセで、あれから、我々の植物工場が、どれほど進化したかを書いた。
3日後に、B氏は再び当社を訪れた。
植物工場の試作機を見て、すぐに食事に誘われた。
数日後、食事の席で、「なにか一緒にできませんか?」との提案があった。
「植物工場の本格的試作機を作りたいのですが」
「幾らかかるんですか?」
「1億円くらい」
「1億は出せないなぁ」
「じゃあ、5000万円」
「3000万円ならすぐに出せますよ」
「じゃあ、3000万円でお願いします」
B氏は、隣に座っていた若い人に、
「じゃあ、3000万円の手続きをしてあげて」
「それで、決まりですか・・・」
この3000万円で、本格的試作機を作る決心をした。
ノートの最初に、B氏にお礼のメールを書いていなかったら、ここへはつながっていない。
その3か月後、最初に講演に呼んでくれたA氏にM氏を紹介して頂いた。
M氏が参画されているファンドから、3億円の融資が決まった。
植物工場の試作機の開発が本格的に始まり、「わらしべ」が「馬」に代わった。
A氏→B氏、A氏→M氏のように、何本かの「わらしべ」から伸びた線は、交差し合いながら、ミカンや、反物や、馬にへと変化していく。
3億円がいきなり降って湧いて来たのではない。
最初にチャンスの「わらしべ」を見つけ、チャンスに対して行動を起こす。
それを3年間続けていて、チャンスの線がつながっていき、「結果」として、大きなチャンスが訪れたのだ。
私が民事再生以前の60年間の人生で、名刺交換をした人は、講演などで交換した人も含めて10万人ほどだった。
民事再生以前に知り合った人で、現在、親身にお付き合いしてくれている人は、家族6人も含めて17人である。
エリック・クラプトンも歌っている
♪ Nobodey knows you, when you are down and out ♬ という古いブルースがある。
まさに、その歌詞のように、「君が転げ堕たとき、君を知っている人は誰もいない」である。
ノートを見直してみると、現在、私があるのは、民事再生前に知り合った17人と、民事再生後に知り合った20人ほどの人々に助けられていた。合わせて37人。
その37人の知り合った人たちとのつながりの線を描いてみると、私の民事再生後の人生で、最初のわらしべになる人は、3人からだった。
その後は、すべて、チャンスを書き始めた初日から今日まで、ジョブスの言う"Connecting The Dots"のように、いくつものドットがつながって、ここまで来ている。
次女智恵は、インクス民事再生後、凸版印刷のブランディング部門に就職した。
そこは1年ほどで退職し、広告代理店の「オプト」に入社した。
1年で、SNS事業部長に昇進。
ニュージーランドのSNS企業「シャトル・ロック」日本法人の取締役も兼務した。
3年前の3月29日に、
「お父さん、今月でオプト辞めるの」
「そう・・・、辞めて何するの?」
「集中して、本を書こうと思って」
「どんな、本?」
「お父さんも、書き続けているチャンスの本よ。効果あるでしょう?
私も、あのノートの方法で、民事再生のショックも乗り越え、新しい職場でも昇進できたの。
その方法を、多くの人に、本を通じて知って欲しいと思ったの」
「じゃあ、頑張って! でも、うちはお金ないからね」
「大丈夫!、ちゃんと貯めているから」
それで、智恵が起業したのが、㈱ダイジョーブ。
智恵が、3年間書き続けた著書
「ザ・ミーニング・ノート 1日3つのチャンスを書くことで進む道が見えてくる」が、
やっと10月7日に発売された。
60才で無一文のなった私が、今日まで明るく生きていられるのは、智恵の教えてくれたことを、忠実に守ったことからだ。 本当に効果がある。
これは、「夢は願えば叶う」といった魔法のようなものではない。
私は、チャンスが次につながる確率が格段に上がってくる確率論だと思っている。
今日起きた「出来事」の中から、自分が「チャンス」だと感じたことを3つ選ぶ。
出来事とは、人に会ったことだけでなく、見たモノ、聞いたことなど、五感で認識した全てのことである。
チャンスとして書くことで、3つは、長い固有名詞を持った「特別な出来事」になる。
次に、自分はこの出来事を、なぜチャンスと感じたのか、その出来事の「意味づけ」(自分自身の認識)を考えることが大切だそうだ。
「ミーニング・ノート」とは、「意味づけ」の意味である。
出来事を、チャンスとして認識し、自分にとってどんな意味があるのかが自己認識できると、私がお礼のメールを書いたように、自ずからチャンスを生かすための「行動」を起こす。
行動を起こすと、返事が来るといったような「結果」が起きる。
行動を起こさないと、結果が起きる確率はゼロである。
御礼のメールを書いたからと言っても、かならず、返事が来るとは限らないが、メールを書かなければ、決して返事は来ない。
しかし、メールを書けば、返事が来る確率は、格段に上がる。
私の場合は、行動を起こすと、1/2くらいの確率で、何らかの結果が出る。
毎日、3つのチャンスを選び、意味づけを行い、次につながる可能性のある行動を、年に1000回起こすことになる。
私は、既に7年間も、毎日3つチャンスを書き続けている。
自分に起きた出来事の意味付けを自己認識し、次につながる行動を起してきたことで、出来事を、どのように意味づけ、その場合、どのような行動を起こせば結果が出やすいかを、既に、7000回も練習を積み重ねてきている。
書くことが練習になり、「意味づけ力」が上がり、「行動の質」が上がってくる。
したがって、書けば書くほど、成功の確立は上がってくるのである。
まとめると、
1)チャンスを3つ書く
2)そのチャンスの「意味づけ」を考える
3)そのチャンスを生かす「行動」を起こす
4)行動により「結果」が起きる(行動を起こさなければ結果は起きない)
1)は自分の力では、起こせない
2)3)は、自分の意志で決定できる
4)は、相手があるので、読み切れないが、2)3)にて、確率は変わる。
言われてみれば、当たり前の話である。
智恵の著書「ザ・ミーニング・ノート」には、その書き方や、考え方が詳しく書いてある。
私が、これを若いころからやっていれば、既に、4万個ほど、チャンスがあったはずだ。
名刺をもらっただけでも、10万もある。
そのすべてに、お礼を書いていれば、どんなチャンスに巡り合えてか悔やまれる。
植物工場ビジネス ㈱プランテックスは、10月には、本社を京橋に移す。
丸の内を追い出されて10年。京橋は、向かい側の八重洲から歩いて7分である。
これも、最初にお礼のメールを書いて、植物工場に試作機を作ることを決心させてくれたB氏の隣に座っていた若者が紹介してくれた人の紹介で、昨年末に、東京建物様につながり、結局、チャンスを書き始めて7年、7000個のチャンス・ラインで、京橋の御殿までたどり着いた。
ぜひ、御殿が欲しい人は、智恵の本をサイトから買ってみてください。
私が、生き証人です。
※「ザ・ミーニング・ノート」は以下のサイトから。
https://www.amazon.co.jp/dp/4903628396/ref=cm_sw_r_cp_api_i_HWGLDbSCNGHA1?fbclid=IwAR1fmlHocJTeQYcyquYkpLCPeVT6pjBa53MYW0G2EZLkFOh0lLqVrpnMUMk