空気依存症
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空気に依存し過ぎるのは危険だと思います。空気を創っていく存在でありたい、と思います。
もちろんここで言う“空気”は、「空気読め」「KY」などと言われる、アレである。複数の人間が集まった時に自然と作り出され、あたかも場にいる人達の総意のように振る舞い、逆らうことに一定の抵抗感を覚えるような、あの雰囲気のことだ。あたかも総意のように振る舞うというのは、空気が意味する本質をついており、いい表現だと思いました。
空気を呪う場合であれ、空気を押し付けるのであれ、空気ってのは便利だ。何でもかんでも空気のせいに出来るからだ。悪いのは常に空気で、責任があるのも常に空気で、失敗するのも常に空気だ。俺もお前も悪くなくて、空気がそうだから仕方なかったのだ。たしかに実体のないものに責任を寄せて、仕方なかったと言われることはよくあることです。「運が悪かった」とか「モチベーションが上がらなかった」とかも同じ類いだと思います。霊視やスピリチュアルが流行るのも同じ傾向だと思います。
総じて、こういった「空気」という単語を発する瞬間、その人は、自分自身が発言の主体性を担うことや責任を負うことを回避していることが多い。主体性や責任を放擲しつつも他者への影響だけを与えたい時や、自分自身の主体性を問われる状況を誰か*1の主体性の問題に置き換えたい時に、私達は「空気」にご登場いただくことになる。個人の意思の自由は、産業革命やフランス革命を経て獲得した貴重なものです。しかし、自由からの逃走に象徴されるように、自らの主体性を放棄してしまう動きもあります。
「空気」を読むことは時に必要で、それはそれで有用なコミュニケーションの技法だとは思うが、「空気」に依存しすぎの人や「空気」に全部おまかせにしている人は、ある日「空気」に生贄になれといわれたら、唯々諾々と生贄になるというのだろうか。本来、空気を読めというのは、共同作業を重視する農耕民族の知恵だったと思います。空気の素は、個人の思いにあるわけで、空気に依存するだけの個人の集まりには空気は存在しません。存在しない空気の奴隷になるのは、全体主義を生み出すだけであり、本当の豊かさである選択肢の豊富さを自ら放棄してしまうことになります。空気に依存する人ばかり、というのも一種の空気かも知れませんが、個人の想いを実現しようとする人が溢れている社会の方が面白い社会だと思います。
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