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ベンチャー企業の成長について、現場で思うこと

日本のものづくりには、マネジメントは不要だった

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世界的なデザイナー、奥山清行氏の言葉は、とても示唆に富んでいました。

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伝統の逆襲

安価な大量生産品は、けっして消費者に感動を与えない。したがって、今後の日本は価格競争に汲々としてはならない。日本が舵を取るべきなのは「価格競争」ではなく、「価値競争」なのである。(4ページ)
ゲームのルールが変わっていることに気づいていても、実際の行動を変えることは難しかったりします。昨年、頻発した偽装問題の根本には、安価な大量生産に対する信仰を捨て切れない姿勢があったと思います。
デザインのようなクリエイティブな要素は、結局、個人の頭の中から出てくるもので、集団で議論してつくるものではない。日本では、組織や会社で動くことが当たり前とされているけれども、個人を重視するイタリアは、ひとりの人間に徹底して強い権限を与えている。そこでつくられた製品は、最初の考えが明確に反映したものになっていく。(81ページ)
日本とイタリアを比較して、よく言われる日本の独創性のなさに言及されています。少なくともデザインの世界では、日本でよくある合議制による折衷案ではなく、個人を競わせて特定の個人のアイデアを透徹させていくことが重要だと思います。
優れた職人や現場の人間が豊富にいる国なら、その(マネジメント能力)必要はない。人数を極端に減らし、流れ作業のラインなどつくらずに同じ人間に最初から最後までやらせたほうが適合する。(90ページ)
MBAで教えられるマネジメント能力は、フォードが発明した大量生産ラインを効率的に動かすものであり、ブルーカラーが余計なことを考えないようにする仕組みだと言えると思います。それに対して、セル生産方式を生み出した日本のブルーカラーの質は高く評価できると思います。
傑出した器用さを誇るブルーカラーが非常に高い教育レベルにあったので、日本では経営者が労働者を管理するマネジメント技術の必要がなかった。(115ページ)
「もの」をつくるという行為は、実はそういうことではないか。書くことと同じで、メッセージが込められている。自分が書いたものは、自分がこの世から消え去った後も、文章が残っている限り人に読んでもらえる。(中略)たかが「もの」、されど「もの」で、人はいなくなっても「もの」は残る。
明治時代、デザインの訳語として使われた「意匠」は、意を表すという意味で、絶妙な訳語だったと思います。デザインには、メッセージが込められており、人は亡くなっても「もの」はデザインとともに残ります。
トヨタの成功は、ブルーカラーが実はクリエイティブ・クラスだったからである。カイゼンやカンバン方式は、上から押しつけられたものではなく、現場で職人が工夫することで機能してきた。(200ページ)
アメリカのリチャード・フロリダ教授の「クリエイティブ・クラス」の提唱は、従来のブルーカラー・ホワイトカラーの分類とは違った視点を提供しました。クリエイティブ・クラスがブルーカラーの業務を行っている国では、マネジメントにかかる比重は非常に軽いと言えるでしょう。
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