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子どもをナメるな

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義務教育のあり方に関して、とても参考になる意見でした。

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子どもをナメるな

福沢がいう「賢人」は、テストの成績が良く、頭の回転が速いという意味のいわゆる「頭の良い人」を指すのではない。歩く百科事典のような何でも知っている博学の人という意味でもない。自分の頭で考え、自分の意思で行動できる人のことだ。(8ページ)
ネットであらゆる情報が検索可能になると、博学であることより自分の頭で考えられることがより重要になると思います。また、きちんとした行動力は、机上の空論が増えるなか、さらに輝きを増していくと思います。
子どもには子どもなりの合理性があり、それを尊重し、有効利用することで教育の効果があがると考えるべきだ。(12ページ)
気づきや納得感を生かす意味でも、子どもの合理性を尊重することはとても大事だと思います。大人の理屈を身勝手に押しつけることは、思ったほどには効果が挙がらないと思います。
二、三歳の幼児は誰からも命令されることなく一生懸命にことばを覚える。それは覚えたことばを使って自分の気持ちを相手に伝えようという意思があるからだろう。このような潜在的に備わっている子どもの知的探求心を消し去ってしまい、強制されなければ勉強できない状態にしたのは親や教師を含むすべての大人の責任である。(24ページ)
人間本来の力を信頼し、何事も強制することなく自然にしていることが最善策のように最近は思っています。
消費者の選ぶという行為は、単に個人的な楽しみを満たすというだけでなく、社会にとってもプラスの影響を与える。それは選ばれる側に緊張感を生む出す効果である。事業者が張り切って仕事をするのは、自分たちのモノやサービスをお客様に選んで欲しいからだ。(30ページ)
消費者が賢くなれば、事業者のサービスも進化していきます。期待を超えるサービスを提供し続けるためには、日々の研鑽が欠かせないと思います。
私たちが問題の責任を行政に転嫁すればするほど、私たちの選択の自由は失われることになる。私たちの社会が抱える問題は私たち自身の手で自発的に解決の糸口を見出す工夫が必要である。(40ページ)
本当の豊かさは、選択の自由に由来すると思います。豊かな社会を保つために、行政に過大な期待を寄せることは、選択の幅を狭める矛盾をはらんでいることを忘れてはならないと思います。
市場経済を忌み嫌う論者がしばしば持ち出すのは、市場における自由競争は弱肉強食の世界であって、か弱い子羊がオオカミに食われるのを黙って見過ごすわけにはいかないという譬え話である、これは考えてみればおかしな論理である。動物の世界ではか弱い子羊がすべてオオカミに食われ尽くすことはありえない。そうなったらエサのなくなったオオカミも生きていられないからである。(90ページ)
持続可能な社会に欠かせないのは、共生の思想だと思います。何事もほどほどにしていれば、そうそう変なことにはならない、というのが持論です。
理科はエンジニアや医者になるために勉強するのではない。科学の進歩によって高慢になりがちな人間の頭を冷すために勉強するのである。自然から数多くの恩恵を受けながら、それを支配し、コントロールできると考えてしまう人間に自然の偉大さを教えてくれるのが理科である。(140ページ)
教養の価値は、自分自身を相対化できることだと思います。人間は高慢になりがちなので、自らの無力さを知ることによって、自然のかけがえのなさに対して謙虚になりうるのだと思います。
自立とは、「好きなことを」「好きなときに」「好きな人と」できるということだ。これが簡単そうに見えて実に難しいことなのである。(195ページ)
本当の自立こそが、本当の豊かさにつながると思います。本当に好きなことを好きなときに好きな人とできていれば、その人は幸福だと思います。
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