人的資本経営の「現在地」とは? 発起人・伊藤邦雄氏が語るAI時代の組織と管理職の役割
「人材版伊藤レポート」を皮切りに、日本企業へ急速に広がった人的資本経営。その発起人である一橋大学CFO教育研究センター長・伊藤邦雄氏は、いまの状況をどう見ているのでしょうか。
HRプロに掲載されたインタビュー(聞き手:株式会社ジェイック 取締役 兼 常務執行役員 近藤浩充氏)から、要点を整理してご紹介します。
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1. 人事と経営をつなぐ「文脈」をつくりたかった
伊藤氏は、人的資本経営がここまで社会に浸透するとは、当時の経済産業省の事務局を含め誰も想像していなかったと振り返ります。
背景にあったのは、人事部門の議論が労務管理や制度の整合性に終始しがちで、経営層との間に溝が生まれていたという問題意識です。経営者から見た人事は「社内の秩序を維持する部門」であり、戦略的パートナーとは捉えられにくい存在でした。
この構造を壊すために、研究会には投資家を呼び込みました。その結果、「人材への投資が企業価値や将来の不確実性を左右する」という、人的資本と経営・資本を直結させる文脈が生まれたといいます。
2. 「日本企業は従業員に優しい」は都市伝説
伊藤氏は、「日本企業は従業員に優しい」という言説に違和感を覚えていたと語ります。たしかに簡単には解雇しませんが、配置や異動は会社主導で、本人の意志やキャリアの希望は二の次になりがちです。自己申告制度があっても希望が通ることは少なく、多くの従業員が「出しても意味がない」と割り切っている、という指摘です。
こうした危機感が、ROE8%以上を示した2014年の「伊藤レポート」、無形資産への投資を促した2017年の「伊藤レポート2.0」、そして「人材版伊藤レポート」へとつながっていきました。
3. めざすのは「日本流のジョブ型」
欧米流の純粋なジョブ型では、人は使えば枯渇し、取り替え可能な「資源(リソース)」です。一方、人的資本経営は、人を投資によって価値が高まる「資本(キャピタル)」と捉えます。
そこで伊藤氏は、メンバーシップ型と欧米流ジョブ型の間で妥協するのではなく、その先にある日本流のジョブ型をめざすべきだと述べています。たとえば、ジョブ型を土台にしつつ、戦略が変わったらリスキリングの機会を提供し、次の戦略へ共に進む形です。
4. 「尖った」事例:富士通とトリドールHD
富士通:メンバーシップ型からジョブ型、自律型キャリア形成へと振り切った点が特徴です。象徴がポスティング制度(社内公募)で、2020年度からの5年間で延べ3万5000人が応募し、1万3000人の異動が実現したと伊藤氏は聞いているそうです。
トリドールホールディングス:「ハピネス」と「カンドウ」を組み合わせた「ハピカン経営」を掲げ、パート・アルバイトを含む一人ひとりの幸福度を重視しています。AIとの短時間の対話で、個人の状態や幸福度を4つの観点からデータ化・分析している点が特徴的です。従業員の幸せが顧客の感動を生み、店舗の繁盛につながるという循環を、経営モデルに昇華させています。
5. 生成AIの可能性とリスク
可能性
- 採用・評価における無意識のバイアス(出身大学、過去の経歴、好き嫌い)の排除
- 経営戦略に必要なスキルや行動特性にもとづく客観的なスクリーニングと、配置精度の向上
- 対立する部門間の「緩衝材」としての活用(人間同士では受け入れにくい指摘も、AI経由なら素直に受け止められた事例)
リスク
最大のリスクは、人がAIに依存しすぎて思考力や創造性を失い、人的資本の価値そのものを損なうことです。伊藤氏自身、講演資料づくりを最初から生成AIに頼ると、思考がアウトプットに引っ張られると語っています。AIは過去データの最大公約数を出すツールであり、ゼロからイチを生む発想や不連続な発想が取り除かれかねません。評価や育成のすべてをアルゴリズムに委ねれば、「個のバリューの最大化」とは逆方向に進みます。AIは単純作業の代替や補助に使い、人間の能力を拡張するために使うという意志が必要だとしています。
6. AI時代に再定義される「管理職の役割」
売上や勤怠などの管理業務の多くは、すでにAIやシステムで代替できます。これからの管理職には、何かを「管理する」こと以上に、組織の根幹を担う基幹職・幹部としての役割が求められます。
先進的な企業では、課長の役職名は残しながら、役割を「人員の管理」から「専門的見地からのアドバイスやキャリア相談」へ変え、現場の数字を追うリーダーは別に立てる例もあるそうです。
そこで必要になるのが、組織や社会全体を見渡す「インテリジェンスな機能」です。自分の課の仕事しか知らない上司に、若手はキャリアの相談に行くでしょうか。そのヒントとして紹介されたのが、ビル・キャンベルが遺した「ファー・アナロジー(遠い類似)」です。自分の業界とは無関係に見える遠い分野から本質的な類似性を見いだし、課題解決に生かす姿勢を指します。
7. 多様性は「1階にパーパス、2階に多様性」
多様性を「我慢して受け入れるもの」にしてしまうのは本質と逆で、異なる個と個がぶつかり「スパークを起こす点」を増やすためにある、と伊藤氏は言います。ただし、遠心力が強すぎると組織は瓦解します。そこで、建物に例えて、1階に共通のパーパス、2階に多様性を置く設計が重要だといいます。
8. 「大きな自由と大きな規律」、そしてエンゲージメントとウェルビーイング
多くの日本企業は「ちょっとの自由と、ちょっとの規律」という狭い領域にとどまり、「やらされ感」が広がった、というのが伊藤氏の見立てです。日本企業のエンゲージメントが世界最低水準にある要因も、社員が自分の人生や幸せを会社に委ね、自分で選んでいないことにあると指摘します。
そのうえで必要なのは、「大きな自由」と「大きな規律」の掛け合わせです。働く時間・場所・挑戦するプロジェクトの選択肢を大きく開き、そのぶん成果の目標は高く設定する。自分で選んだ挑戦であれば、高い目標でも「やらされ感」は生まれにくいとしています。
また、エンゲージメントとウェルビーイングの両立も提案しています。高いエンゲージメントで猛烈に働くハイパフォーマーほど、ある日突然燃え尽きるリスクがあるため、ウェルビーイングも評価軸に置くべきだという考えです。「ぬるま湯」をつくることではなく、スキルに合った仕事のマッチングと、1on1などの対話による継続的なチューニングが鍵になります。
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◾️まとめ
- 人的資本経営の出発点は、人事と経営をつなぐ「文脈」づくりにあった
- 「解雇しない」ことと「大切にする」ことは別。本人の選択と自律が問われている
- AIは強力な武器だが、依存すれば創造性を損なう。使い方の意志が問われる
- 管理職は「管理」から、視座の高さにもとづく「インテリジェンス」へ
- 大きな自由と大きな規律、パーパスを土台にした多様性が、企業と従業員の成長を支える
◾️出典
HRプロ「人的資本経営の"現在地"とAI活用の可能性 一橋大学名誉教授 伊藤氏」(株式会社ジェイック 近藤浩充氏によるインタビュー)
https://www.hrpro.co.jp/download_detail.php?ccd=00594&pno=292
※本記事は上記資料の内容を筆者が要約・再構成したものです。詳細は原典をご参照ください。