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夏目房之介の「で?」

2023.7.8 大東文化大学講演  漫画概念の史的展開レジュメ  夏目房之介

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2023.7.8 大東文化大学講演  社会学特殊講義II(マンガ・アニメ講座)

漫画概念の史的展開レジュメ  夏目房之介

現在の「漫画史観」再検証

今、我々が何となくイメージしている「漫画史」は、明治以来歴史的に形成されてきた「漫画史観」の枠組みであり、そこには様々な偏りがある。多くの学生は、「日本漫画やアニメは『鳥獣戯画』や『北斎漫画』など日本の伝統文化を継承した、世界に誇る固有の文化である」という紋切型の理解をしている。しかし、この漫画観は、マスコミを通じたイメージ流通、教科書で学んだ日本文化称揚の枠組みに規定されている。

実際は、日本漫画は明治以降西欧の衝撃を受けて成立した輸入文化と、江戸期以来の木版戯画の混交文化であり、アニメは大正期以降の欧米映画産業からの輸入文化である。ワーグマンなど幕末から日本で活躍した挿絵画家らの影響で明治期には「ポンチ絵」と呼ばれたこと、その後「漫画」という用語が明治から昭和初期にかけて浸透し、その間多くの欧米新聞漫画の影響を受けてコマ展開の漫画が発展したことは、すでに須山計一、清水勲らの多くの研究で言及されている。にもかかわらず、須山、清水自身もまた『鳥獣戯画』を源流とする漫画=日本固有文化論の枠組みを継承流布してきた。

漫画概念の歴史的成立については、宮本大人「「漫画」概念の重層化過程」2003年(注1)という重要な論文があるので、参照したい。また、「漫画」が日本の近代化過程での「芸術」概念輸入にともない、「絵画」「文学」それぞれの「絵」と「文字」の純粋芸術化の間隙に産み落とされた、絵と文字を併用する「不純な領域」として成立したことを指摘する「「漫画」の起源 不純な領域としての成立 補訂版」(2002年)(注2)という論文も併せて参照されたい【図1】。

漫画固有文化論の成立

「漫画」概念を日本固有文化の枠組みで歴史化しようと試みたのは、漫画家自身であった。日本最初の漫画史ともいわれる『日本漫画史 鳥獣戯画から岡本一平まで』(1924(大正13)年)(注3)の著者細木原青起は漫画家であり、この枠組みは岡本一平らにも継承され、さらに戦前から活躍した映画評論家今村太平『漫画映画論』(1948年)(4)も映画と絵物語を関連付け、文化人に影響を与えた。清水によれば、岡本一平は当初自身を「漫画子」と自称したが、売れっ子になるにしたがって「漫画家」と名乗ったという。岡本一平は漫画家の集団を組織し、様々な活動を通じて漫画の普及を目指した。彼が「漫画」の認知を大きく進めた功績は大きい。一平に先立ち職業漫画家第一号を自認し、多くの漫画雑誌を創刊した北沢楽天は、自身刊行の『東京パック』1905(明治38)年6月10日号で「漫画師」という用語で漫画家募集を行っており、まだ「漫画家」という用語が流通していなかったことを示唆している【図2】。

「漫画」という用語の背景には、明治期以降西洋から輸入された美術史概念と、それを範型とした「日本美術史」の成立、その過程での伝統文化称揚のナショナリズムの強い影響がある。宮本は同時期の国宝制定運動との関連を指摘する。漫画家たちは、ポンチ絵評価からの離陸を目指し、『北斎漫画』の評価に自らを結び付け、いわば権威付けとして「漫画」という用語を再利用し、欧米の影響で成立した自らのメディアを再定義したのである【図3】。ただし、清水勲は「漫画」という用語が一般化したのは昭和に入ってからではないかとする。

主流派「漫画集団」と「異端派」手塚治虫

大正期の出版ブームと、大正モダニズム、映画など都市大衆文化の勃興とともに、西洋前衛芸術の流入もあって、「漫画」はモダンなメディアとして認知されてゆく。その担い手になったのは、楽天、一平らの既存漫画家に対抗して一種の若手互助組織として、近藤日出造、杉浦幸雄、横山隆一らが結成した「新漫画派集団」である。「新青年」など当時の若者文化を代表する雑誌などで活躍し、米国流の「ナンセンス漫画」を標榜した。彼らはやがて楽天、一平両派を凌駕し、戦前戦後の漫画界主流派となってゆく。この流れの中では子供向けの物語漫画は傍流であり、戦後になって評価の低い単行本漫画で頭角をあらわした子供漫画家手塚治虫が「異端」視された(手塚自身の認識だが)のも、戦後「漫画集団」と改名した主流派との関係においてだった。しかし手塚は生涯漫画集団系漫画家に敬意を払い、集団への参加を希望していた。考えて見れば、それは当然の経緯だった。手塚が成長期に「漫画」として受容していたのは、まさに主流派の漫画概念であり、それへの強い憧れが彼を動機づけていたからだ。手塚の中に残る「いい漫画」のイメージは、おそらくそこに淵源する。

ただ戦後生まれの我々からすれば、我々の漫画概念はむしろ手塚に始まる。じつは、明治期のポンチや漫画、大正期以降の漫画、戦後の物語漫画は、それぞれその内容形式において大きく異なる。我々はそもそも同じ「漫画」という用語で、歴史的に異なる現象を同じものとして扱おうとしているのである。このことは自覚しておく必要がある。

手塚系漫画支持集団としての戦後ベビーブーマー

楽天、一平、新漫画派集団などの各集団がそれぞれ支持する漫画概念があり、それらを同じものとして、直接の因果関係のない絵巻物や北斎と連結し、欧米の影響を脇に追いやって成立したのが、現在流通する日本漫画史なのである。しかし、なぜそんなことになったのか。

今我々が「漫画」として認知しているのは、おもに手塚以降一般化した子供漫画及びその発展形態としての青年~大人向け物語漫画である。雑誌を中心に市場を広げた物語漫画は、70年代から雑誌連載と単行本を中心に発展した多量の頁を使うメディアとなる。その背景には戦後普及したテレビにおける漫画のアニメ化、実写化、そこに介在する商品化市場の産業化があった。この展開を支持したのは、戦後ベビーブーマーの巨大な子供市場であり、また6070年代に若者となった彼らの漫画家、編集者、愛読者集団である。背景には、敗戦後朝鮮戦争を契機に復興した経済の高度成長があった。そのさなか60年代半ばから子供、青年層の可処分所得も急速に上昇し、ファッション、音楽などと並ぶ若者文化消費として漫画市場も膨れ上がった【図4】。

漫画では、部数的には少ないながら、白土三平中心の「月刊漫画ガロ」(1964年創刊)、手塚治虫中心の「COM」(1967年創刊)が、若者の漫画愛読層に影響し、同人誌集団の全国的な組織を推進した。同時に、そこでは文化人らの言説や読者欄を通じて新たな漫画論言説が共有されていった。それら言説の影響を受けたマンガ青年集団は、ジャズやロック同様に漫画を自らの自己表現メディアとし、自分たちの固有な表現領域として自己主張してゆく。彼らは手塚の「ストーリーマンガ」創世神話を受け継ぎ、「漫画集団」系「大人漫画」(当時そう呼ばれた)を旧勢力、いわばある種の仮想敵と見なした(少なくとも私はそうだった)。

70年代、彼ら漫画青年自身が漫画を論じ始めると、彼らは先行する文化人言説の多くをそこから排除した。鶴見俊輔、尾崎秀樹、佐藤忠男、石子順造、草森紳一、小野耕世ら、海外漫画とその影響の知見を共有していた先行知識人の言説は、戦後世代の漫画論言説において忘れ去られ、日本固有文化論が継承された(5)。その結果手塚中心史観と戦前からの固有文化論の折衷によって現在の漫画史観が成立していったのである。1950年生まれの私自身、まさにこの戦後世代漫画青年集団に属し、現在の折衷漫画史観を普及させてきた戦犯でもあるので、これは自己批判としての再検証である。

ここで「漫画集団」系を仮想敵としたというと、党派対立的な図式を想定されるかもしれない。しかし、実際はきわめて曖昧で、互いに名指ししての批判などはほとんどない。漫画集団系からの子供漫画批判、「劇画」批判などはあったが、他方で理解者もおり、両者は明確な対抗関係があるとは言い切れない。こうした曖昧な対立関係は、「ガロ」「COM」の読者層の微妙な違いと同一性、貸本メディアを中心にした「劇画」系と手塚周辺のトキワ荘の間にもあり、両者はある部分で対立し、ある部分で共通している。今後、漫画史を、それぞれの漫画概念を形成支持してきた集団の力学関係で見て行く場合、この曖昧さは留意されなければならない。歴史を描き出すための図式化は、理解を進めると同時に、グラデーションのように曖昧に存在している部分を排除し、理解を単純化、固定化しかねない。それは時間とともに流動する歴史そのものを捉え損ねることになる。

メディアの形式としての漫画観

ところで、戦後世代集団に支持された漫画論言説には、一つの特徴がある。漫画の表現形式そのものへの注目である。嚆矢の一人石子順造は、メディア論として漫画の形式を問い、近代印刷による大量複製こそが漫画の条件であるとした(6)。彼はいわば読者論の側面から漫画の特徴を論じ、コマの展開のあいまに読者の想像力が介在するとして、漫画の優位性を主張した。草森紳一は「COM」誌上連載で「コマ」や「フキダシ」、オノマトペなどの形式要素を取り上げて論じた(7)。同じ「COM」誌上で峠あかね(真崎守)は、手塚に始まるコマの構成こそが、読者の自由な参入を用いた新たな漫画であるとした(8)【図5】。これらの流れを継承し、呉智英は絵と文字の混交表現を図式化して示している(9)

こうした流れの継承として、90年代に夏目の「漫画表現論」(注10)、四方田犬彦『漫画原論』(11)、大塚英志の諸論考(12)が登場し、漫画を表現形式として解読する傾向が前面化していった【図6】。とりわけNHKETV「人間大学 マンガはなぜ面白いのか」講義(13)NHKBSマンガ夜話」放映(14)などがあり、漫画を形式として語る漫画論言説が普及していく。この流れがやがて2000年代の学術的な漫画研究の展開につながっていった。

ここで興味深いのは、形式として漫画を論じようとする言説は、日本に限らず米国やフランスにおいても、同じ90年代に盛んになってきたという事実である(注15)。それがなぜなのかは、今はまだわからない。が、漫画という現象が第二次大戦後という時代を共有し、同じ思想背景の中で、世界同時的に生起してきた可能性を感じさせる。2000年代には海外の研究動向も徐々に日本に紹介され、漫画論の枠組みそのものを問い返す形で今も展開しつつある。

(注)

1)宮本大人「「漫画」概念の重層化過程」「美術史」2003年 「漫画」概念の重層化過程--近世から近代における | CiNii Research

2)宮本「「漫画」の起源 不純な領域としての成立 補訂版」 【資料室】宮本大人「「漫画」の起源 不純な領域としての成立 補訂版」を公開 - M studies

3)細木原青起『日本漫画史 鳥獣戯画から岡本一平まで』岩波文庫 2019

4)今村太平『漫画映画論』岩波書店 1992年

5)小田切博はこうした批判を展開してきた。『戦争はいかに「マンガ」を変えるかアメリカンコミックスの変貌』NTT出版、2007年など参照。

6)石子順造『マンガ芸術論 現代日本人のセンスとユーモアの功罪』富士書院, 1967年、『現代マンガの思想』太平出版社, 1970年など参照。

7)草森紳一「ストーリーまんがの文法論」「COM」(虫プロ商事)1968年3〜10月号連載など参照。

8)峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」 「COM19683月号「特集 まんがは芸術か?」P.80-82参照。

9)呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局 1986年による言語学的・記号論的考察。マンガの絵と文字とコマの関係を「線条性」「現示性」の構造として図式化。

10) 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房1992年、『マンガはなぜ面白いのか その表現と文法』NHK出版1997年、共著『マンガの読み方』宝島社1995年など参照。

11)四方田犬彦『漫画原論』筑摩書房1994年参照。

12) 大塚英志『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』弓立社1987年、『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』宝蔵館1994年など多数。

13) NHKETV「人間大学」夏目房之介「マンガはなぜ面白いのか その表現と文法」講義199679月放映。

14) NHKBS2「BSマンガ夜話」19962009年不定期放映。全144回。大月隆寛、いしかわじゅん、岡田斗司夫、夏目らがレギュラーとなった。

15) 1993年米国でScott McCloudUnderstanding Comics: The Invisible Art』が刊行され、98年岡田斗司夫監訳の邦訳『スコット・マクラウド『マンガ学 マンガによるマンガのためのマンガ理論』美術出版が出され、その後2020年椎名ゆかり訳、小田切博監修の「完全新訳版」復刊ドットコムが刊行されている。フランスでは1999年、Thierry GroensteenSystème de la bande dessinéePresses Universitaires de Franceが刊行され、野田謙介訳で2009年邦訳されている。

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