森下達『ストーリー・マンガとはなにか』評
森下達『ストーリー・マンガとはなにか 手塚治虫と戦後マンガの「物語」』青土社 2021.10.15
著者より送本いただきました。「マンガ研究」(日本マンガ学会紀要)などに掲載された論文群をまとめた、かなりの労作である。手塚による戦後マンガの表現変革を物語論的に語りなおす試みである。これまでの漫画研究の成果を幅広く渉猟し、「手塚と戦後マンガ史研究の総まとめ」的な観すらある。私や竹内オサム、大塚英志、伊藤剛、宮本大人など、漫画の先行研究に幅広く目を配り、さらに三輪健太朗『マンガと映画 コマと時間の理論』(NTT出版2014年)に言及し、手塚による「古典的ハリウッド映画的」様式の導入と「フィルムノワール」という映画ジャンルとの同時代的共振を示唆して、ポピュラーカルチャー全体との関係にまで議論の枠を広げようという意図を感じさせ、わくわくさせる
また、これまで戦前戦中漫画と戦後漫画の連続性、非連続性についての研究不足が明らかになってきているが、森下は「少年倶楽部」の「孤児モチーフ」に西洋文芸の影響を見出し、その日本的展開として孤児主題とナショナリズムの接続を論じる。その線上で『のらくろ』を論じ、戦後手塚による『メトロポリス』など孤児テーマの継承と、ナショナリズムの排除という構図を提出する。この議論には歴史的な連続性、非連続性を巡るバランス感覚が働いている。
漫画史研究言説への目配りと参照注釈の豊富さは、これから漫画研究に入ってみようかと思う人たちにとっては格好の入門書たりうるかもしれない。文体自体はわかりやすく読みやすいし、厄介で困難な議論についても適度の距離で示唆するバランス感覚を見せる。もっとも、研究者にはそこが食い足らないと感じる向きもあろうが。
中心的な議論では、手塚の内面表現の実現を、『地帝国の怪人』『メトロポリス』『吸血魔団』『38度線上の怪物』『罪と罰』などを論じながら、そこに(ストーリーではなく)プロットの複数性や矛盾を見出して、間接的な「内面」の表現から「映画的」な様式の導入、「リアル」な時間の達成へと論じてゆく。森下は、それが1950年代半ばに日本の戦後「ストーリー・マンガ」の基底となっていくと説く。
その過程で興味深いのは、手塚の『罪と罰』に影響されたつげ義春『ある一夜』の比較から、劇画ムーブメントに注目し、石森章太郎及びトキワ荘グループと劇画ムーブメントの対比を示唆するあたりだ。私もじつは似たようなことを考えていて、斎藤宣彦が研究しつつある「ギャグマンガ」の成立と「劇画」ムーブメント(笑いの排除)はパラレルに論じ得るところではないかと思ている。そういう意味でも、様々に刺激的な観点を含む一冊である。
また私などの世代に強く作用した「発展史観」的な誤謬に対しても配慮している。森下がいうように「前近代的」物語から「近代的」物語への変化を単線的に必然化し、そこに優劣を見るべきではない。手塚評価もまたその配慮の上でなされるべきだろう。この点は私自身も自己批判するべきところだ。
ただ、全体を読み終えて、そのバランス感覚と幅広い参照を評価しつつも、もっと前面に押し出す強力な主題に挑んでもよかったのではないかという印象はある。手塚について「映画的手法の導入によって戦後ストーリー・マンガを確立した」と論じられてきた戦後漫画論の大枠の内側で、大塚や伊藤のキャラクター議論を継承し、目くばせの良さでそつなくまとめた感が、大変失礼な物言いながらある。これほどの表現力があるのだから、もう一歩乱暴に冒険するところがあってもよかったのではないか、というややないものねだりの感想である。
そう思うのは、読了して再度タイトルを見たとき、結局「ストーリー・マンガとはなにか」に本書は直接答えていないのではないかと感じてしまうからだ。竹内オサムが同じ時期に出したオサム『手塚治虫は「ジャングル大帝」にどんな思いを込めたのか 「ストーリーマンガの展開』(ミネルヴァ書房2021.10.30)の「第九章 「ストーリーマンガ」の概念と悲劇的要素」で論及し、瓜生吉則が側面から語ろうとした「ストーリー・マンガ」と呼ばれる現象について、もう少し具体的な検証があってもよかったのではないか。
さらにいえば、手塚マンガが戦後漫画の「表現の基底」となったのだとすれば(私も竹内もその前提で語ってきたわけだが)、その実証への試みも今後なされるべきかと思う。