森下典子『青嵐の庭にすわる 「日日是好日」物語』文芸春秋
森下典子『青嵐の庭にすわる 「日日是好日」物語』文芸春秋 2021.11.25
森下典子の本を読むと、即座にその世界に引き込まれてしまい、そこから離れたくなくなる。ページを閉じて本を置いても、ずっと頭の中にその世界が佇んでいて僕を待っている。同じことはよくできたTVドラマやマンガや小説でも起きるが、森下さんのエッセイはその力が強い。でも、強引ではなく、上品に静かにそれを行う。だからいつも読みだすとすぐに読み終えてしまい、勿体ないからゆっくり読もうとするが、おいしい料理のようについどんどん口に運んでしまうのである。あ~読み終えちゃった、といつも思う。
今のところ彼女の最高傑作だろう『日日是好日』(飛鳥新社2002年)は、まことに優れた実写映画(2018年)となり大ヒットした。それぞれいい役者さんが優れた場面を作っていたが、観終わって樹木希林さんの印象と記憶が圧倒的で、まるで彼女の映画のようだった(いや無論黒木華や多部未華子も素晴らしいし、鶴見辰吾にも感動したのだが)。しかも、樹木はこの映画のすぐ後にこの世を去ってしまった。本書『青嵐の庭にすわる』は、映画の茶道場面の監修者として制作参加した森下典子の体験談である。ひたすら一人で原稿に向き合う筆者の日常から、いきなり未経験の映画制作現場に巻き込まれ、様々な場面と人間に出会い、その向こうに何か大切なものを垣間見て文章にする。
それまで茶道などしたこともなかった樹木希林が「どこからどう見てもお茶の先生だった」という話は、たしか彼女と対談したときに聞いていた。樹木希林は、じつは森下さんや映画スタッフの知らないところで、映画のために知人について茶道を秘密特訓していた。「お辞儀一つでも他の人と違う」と原作にあったので演じるのは大変かと思ったが、〈『森下さんが教わっている先生』と考えると、ちょっとざっくばらんなところがある、ふだんは普通のおばさんでもいいかな~と思って、肩の力が抜けました〉(同書P.212-213)と語っていたという。それを知った森下さんは樹木がたびたび控室に呼んでくれたわけがわかった気がした。樹木は、森下さんを通して師匠を見通していたのではないか、と。
森下典子もまた、そうした眼力を持つ。映画の現場を見て、様々な事象の向こうに常に何かを発見し続ける。これまでの仕事も多くがそうだった。僕が週刊朝日で修行中のライターだった20代の頃、大学を出たばかりの彼女は、どちらかといえば不器用なところがあったが、しかし拾ってくる情報はいつも僕の頭に絵を浮かばせてくれる種類のものだった。「掌がじとっと汗ばんでるようなおじさん」とか、彼女の形容を聞くと何となくおじさんの顔や様子が浮かぶのだ。彼女の持ってくる話はいつも面白かった。
また、あまり一般性のない話だが、文中〈お茶では、『重いものは軽々と、軽いものは重々しく』持ちます。[略]両脇に卵を一個挟んだようなつもりで持ってください。〉(P.57)と森下さんが映画スタッフに教える箇所がある。僕が習っている八卦掌という中国武術でも同じことを教えられる。中国武術では比較的一般的な注意かと思う。おそらく身体の中心をブラさずに一定の安定を保った動きを作るのに、それが必要なのである。茶道もまた同じなのだと教えてくれた。
鶴見辰吾の演技に感動したのは、何ということのない日常場面で、彼は森下さんの父上の役だった。この人はこんなにいい役者だったんだなあ、と感心させられた。その場面の撮影で森下さんは、鶴見が〈ドキリとするほど父に似ていた。〉(P.151)と書いている。顔がではなく雰囲気がである。その鶴見は森下さんに〈お父さんは幸せだったんじゃないかなぁ...〉(P.150)と言ったという。それはまるで亡くなった父上からの伝言のようだったとある。やはり、あの場面には何かそういう説得力があったのだと思った。
映画がクランクアップして久しぶりに会った樹木希林は、驚くほど痩せて小さくなっていた。彼女は森下さんに〈もう、風前の灯〉(P.204)と真正面から言った。見事な死への向き合い方だったようだ。この本を読んで、もう一度あの映画が見たくなった。じつは利休物など時代劇の茶道映画は過去にあるが、現代物の茶道の映画はこれが初めてだったという。とりあえずネットフリックスで探してみようと思う。