遠藤みゆき「マジック・ランタンの両洋」 展覧会カタログ『マジック・ランタン』感想
遠藤みゆき(東京都写真美術館学芸員)「マジック・ランタンの両洋」 展覧会カタログ『マジック・ランタン 光と影の映像史』東京都写真美術館 2018年
東京都写真美術館のマジックア・ランタン展図録を読んで、ちょっと感想を書いてみました。
遠藤によると、欧州から渡来したマジック・ランタンは日本で「写し絵」と呼ばれて「風呂」と呼ばれる投影装置になるが、これが「欧米の重い鉄製」ではなく「世界的にも珍しい、木製の、軽く持ち運びに適したつくりだった。」(p.102)そのため、上演スタイルも「複数人の演者が風呂を自ら胸の位置に抱え自由自在に舞台上を移動する、独自の形式に発展した。上演場所も見世物小屋や寄席のほか、屋台船の上など、日本独自の文化としてその形態・内容ともに、深化していった。」(p.102)という。実際、展示で映写されている「写し絵」実演をみると、風呂を抱えた演者が揺らしたり歩きまわることで、映像は変化し、動き、語られている説話を生き生きと再現している。音曲、語りととともに、そこには運動する映像群が映し出されていた。
語り物の伝統との合体は、プロジェクションという新たな技術を幻想的な説話形式に変貌させる。遠藤はまた「上演に欠かすことのできない語り手の存在、つまり弁士の解説によって絵と物語が展開していくという形態は、映画だけでなく紙芝居にも深く結び付く。」(p.103~104)と指摘している。そして、「マジック・ランタンは単なるプロジェクションではなく、その上演にはパフォーマーの身体性が不可欠であり、また投影装置というオブジェの存在や空間全体が醸し出す陰影、それらすべての経験を総じて形作られるものだった。」として、この視覚的「文化が根源的に内包する領域不可分性をあらわにする。」(p.104)と示唆している。
やや抽象的だが、展示物を見、実演の様子の映像を見て感じた「身体性」や運動感覚の視覚化は、たしかに単純に「絵や映像を映し出す」というだけの静止したイメージを越えて、声・音と動く映像の分節による空間的な経験の総体なのだろうと推測できる。
ここには、あきらかにやがて映画を招来する視覚文化的欲望があると同時に、たんに映画前史の未成熟な技術ということではない、もっと幅広く混沌とした何か欲望の領域を感じることができる。そして、これが18~19世紀欧州で発展し、同時に江戸期日本でも展開したことを考えると、我々が今考えようとしている「マンガ」に類する表現文化もまた、その中で胎動し、生まれてきたのではないか、という仮説的な連想をもたらしてくれる。何て刺激的なんだろうか。