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夏目房之介の「で?」

「フリースタイル 36 宮谷一彦インタビュー」

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宮谷×矢作俊彦インタビュー(というより対談)、山上たつひこ、いしかわじゅん、中条省平、赤田佑一の関連エッセイ。
宮谷・矢作対談は、当たり前だが超面白い。矢作でしかありえないタメ口に、つい笑ってしまう(矢作は僕と同じ50年生まれなので、多分5歳ほど若いはず)。でも矢作は元マンガ家でもある(ダディ・グース)ので、批評眼はたしかで、鋭い指摘がある。
また、当時の編集のゆるさについて「青年マンガの誕生時期だったので、誰もどうしていいかわからなかった」という言い方で一致している。おそらく、そうなのだろう。当時の原稿料についても、ともに4~5千円と言及。青年マンガの旗手たちへの期待と応援もあっただろう。トップ作家でも1万を越える程度なので、相対的には高かったし、僕の試算では60年代の10年間で十倍になっている(が、その後数十年しても2倍にしかなっておらず、高度成長した市場に比してマンガ家原稿料は相対的に低く抑えられてきた。これもマンガ市場の歪みだったと思う)。
あと、山上さんの宮谷についてのエッセイがいい。会ったときに、じつは怖かったのだと。そこに当時の宮谷がまとった独特なオーラと、当時の若い作家たちへの衝撃と影響力が感じられる。宮谷は、けして一般受けしたわけではなく、マンガ青年や若い作家たちに支持され、影響を浸透させ、それが結果的に当時の青年マンガへと継承された。宮谷はあまりにリスキーな制作方式と、過激な前衛的意識もあって、その後大友の登場と入れ替わるように急速に時代から退いてしまったと見えたが、大友もまた宮谷の影響を受け、同じように作家やマンガ青年の集団に大きな衝撃と影響力をもった。
僕の感じ方でいえば、そういう作家の系譜でいうと、60年代貸本の永島慎二、園田光慶、60~70年代前半の宮谷、そしてそれ以後の大友~ニュー・ウェイブというラインが描けるように思う。いずれも、一般受けではなく、大衆娯楽でもありながら、一線を画し、作家やマンガ青年共同体の中で価値を認められた存在だった。

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