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夏目房之介の「で?」

映画『終戦のエンペラー』

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ひさびさにレンタルDVDで観てみた。なかなかよくできた興味深い映画だった。
http://www.emperor-movie.jp/

原題は「Emperor」。日本ではかつて『日本のいちばん長い日』というベストセラーと映画があったが、この映画は、米占領軍が、天皇の戦争責任を巡って有罪か無罪かの証拠探しをするというミステリー的歴史映画になっており、娯楽作としても楽しめる作りになっている。主人公は、トミー・リー・ジョーンズ演じるマッカーサーではなく、彼の部下で知日家だった側近の将校。彼と日本人女性の悲恋の話は、僕個人としてはどうでもよかったが、まあ娯楽作として女性の興味もひきたいということなんだろう。
映画のもっとも盛り上がる場面は、昭和天皇とマッカーサーの、あの有名な写真の面会場面。天皇は、すべての責任は自分にあり、自分はその懲罰を受ける覚悟でここにきた、日本国民にその責はない、ということをマッカーサーに英語で話し、マッカーサーは「いや、我々はあなたが必要なのだ、ともに再建について話そう」と語りかける。
主人公の将校は、結局無罪である証拠はつかめず、しかし有罪であるとの証拠もないとする。映画は、マッカーサーと彼が、もし天皇を逮捕すれば、当時の日本政府は崩壊し、反乱のおきる可能性が高く、大変な混乱に陥る。もっともと恐ろしいのは、そこで共産主義の影響力が高まることだとの政治的判断から、天皇を守り、戦犯からはずす決断をするという話になっている。これは日本でも大体そうした認識が一般化していると思うが(まあ、いろんな立場の人がいるので、異論はあるだろうが)、ハリウッド映画でもそうした話になったところが興味深い。本当のところ、そんなところの高度な政治判断だろうと僕も思う。

 

実際、もしも開戦と戦争推進期の日本の政治中枢にいた政治家や軍人に戦争責任なるものがあるとすれば、いかに形式上の立場とはいえ、天皇に戦争責任がないという論理は無理があるだろう。しかし、彼が当時の政治中枢の中ではほとんど唯一国際感覚を身につけた人物であり、戦争を個人的には望まず、降伏勧告受諾を進めた(映画はここを重視している)のも、おそらく事実だったろう。ある種の狂信状態にあった当時の日本の集団的狂気の中で、もし戦争責任を問うのであれば、日中戦争も含めて、多くの日本国民にも責任があったといわざるをえない。個人の意思と行為に「責任」を求める論理では、こうした状況に「正解」を求めるのは不可能だろうと思う。

ところで、映画の最後、各登場人物の実際の肖像写真とともに、彼らのその後の経緯が短くクレジットで語られる。その中で、天皇は1989年の彼の死まで、その在位を続けた、との記述がある。が、日本語字幕ではそこに「象徴天皇として」との一文が入っている。少なくとも僕の理解しうる限りでは、映画の英文に「象徴天皇」に相当する文字はなく、たんに「在位(reign)」とされているだけのように見える。この「翻訳」に、どんな意図があるのか、あるいはなかば無意識にそうしてしまうのか、そういうところも興味深い。

あと、この映画に限らず、ハリウッド映画に登場する「日本人ヒロイン」が、なぜか(少なくとも僕には)ストーリー上必要だったはずの魅力を感じないのは、なぜなんだろう。伝統的な米国の「日本人女性」像の、エラがはって、目の釣りあがった女性ではないものの、日本人が観て魅力的には思えないイメージだったりする気がする。ハリウッドの望む日本女性像って、どうなんだろう、実際。

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