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夏目房之介の「で?」

2014.1花園大学後期集中講義レジュメ1

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2014.1.18~19 花園大学集中講義 マンガ編集者とマンガ産業市場の経済  夏目房之介

 1月18日 1

1)マンガ家とマンガ編集者 マンガの現場イメージ

○マンガ家と編集者を描くマンガ 島本和彦『燃えよペン』メディア・ファクトリー 1999年

 「熱血」を戯画化して描かれたマンガ家マンガのヒット作。日本の少年~青年マンガの最大のキイワードは、70~80年代の拡大~確立期に成立した「熱血」かもしれず、その意味で島本の「体質」ともいえる「熱血」は、現代マンガ(おもに男性向け)のひとつの側面を代表している。「シンバット」「YOUNG CLUB」1990~91年連載。その後、『吼えろペン』(サンデーGX連載)に続き、自身の学生時代を描いた『アオイホノオ』(2007~)とあわせ、島本の一種自伝的な連作となる。

マンガ家を描くマンガは、早くは永島慎二など60年代からあるが、「現場」のリアリティは読者の情報共有とともに高まり、この作品は読者がマンガ現場に対し一定の情報共有を確立したことを示す。日本の戦後マンガが「読者-作者共同体」幻想とともに確立していったことを、マンガ家マンガは示しているかもしれない。

 図01 同p135 原稿締め切りの切迫を説得するマンガ編集者

 締め切りを迫る編集者の姿は、藤子不二雄(A)(安孫子)『まんが道』(「週刊少年チャンピオン」1970~72年連載後、各誌に連載、さらに続編『愛知りそめし頃に』(95~03年)に続く長編自伝マンガ)などでもおなじみになり、もはや定番の場面。が、さらっと「落ちる」という業界用語を編集者のセリフに入れるなど、すでに読者もその程度の情報は共有しているものとして描かれている。ちなみに、主人公・炎尾燃に「緊張感」がないのは、出版社のパーティを控えているため。出版社パーティ場面も、マンガ家マンガでは定番になっている。

 図02 同p194~197,209 締め切りと制作日程が完全に重なったスケジュールと原稿を取ってゆく編集者

 こうした苛烈なマンガ家の制作現場のイメージも、担当編集者の激こう、なだめ・すかし、説得、原稿取りの苦労などともに読者にとっては定番のイメージとなっている。

○原作・大場つぐみ、漫画・小畑健『BAKUMAN』5 集英社 2009年 

 「週刊少年ジャンプ」を舞台に脚本(マンガ界では「原作」と呼ばれる)・マンガの二人組(10代の若者)が主人公の現代版『まんが道』。当時の編集長・鳥嶋氏が登場するなど、「現場」の内幕を描いた。「週刊少年ジャンプ」2008~12年連載。ちなみに「原作」という言葉を慣用したことは、多くの誤解を生じ、さいとうかたおは反対していた。

 図03 同p140~141 「アンケート」を意識し過ぎる主人公達と話す担当編集者

 「アンケート人気投票」至上主義を噂される「ジャンプ」編集部内で、「アンケートを気にし過ぎて駄目になった新人を見てきた」という編集者の言葉はリアリティがある。実際、「ジャンプ」編集部で人気投票をマンガ家達のみならず担当編集の競争意識をも煽る手段に使っている事実はあるようだが、逆に作家ごとにその「鞭」を使い分けてもいるという場面。「ジャンプ」読者にとっては「おいしいネタ」?

また、人気投票順位と連載打ち切りに関する話は、1950~60年代の月刊誌時代の話として『まんが道』にも登場するように、昔から各誌あった。それが、まるで「ジャンプ」固有の特徴のように流布されたのは、歴史的には70~80年代に産業規模として急速に拡大し、市場競争原理が雑誌連載に強く反映するようになったマンガ市場の変容が背景にあるだろう。「ジャンプ」の躍進と持続による「ジャンプ神話」の一角をなす内幕情報類型。

 図04 同p25,28~29 新人の週刊連載にあたりアシスタントを手配する担当編集者

 週刊連載にあたり31歳のチーフアシの他二人のアシを必要とする。チーフは長年アシ経験があり、新人の「先生」達よりマンガ制作の現場に詳しく、手早く机の配置などを指示し、他のアシの腕を見て役割を決める。実際、こうした一種のプロアシともいえる人材がいるらしい。担当編集は、この他、地方から出てくる新人の部屋探し、仕事場探し、連載中の差し入れなど、親代わり的な世話をやく場合もあるという。

 「パソコンとプリンタは必須です[略]デジカメで撮った画像を加工してプリントアウトしトレースという場面も多々出てきます」というチーフアシのセリフは、現在のマンガ制作現場を象徴している。かつては、紙の原稿にセリフなどの文字を写植で貼り付け、それを原画にして版を作製し、印刷していたが、現在ではデジタルデータで印刷所に入稿する。パソコンで「原画」を作成し、そのままデータ入稿する作家も増えているはず。この変化は、日本マンガを海外に輸出する際もデータで送り、パソコンで文字(セリフや擬音の描き文字など)を現地語に変更するなど、制作現場の流れを変えている。

 図05 同p17 アシスタント代(マンガ家の支出)

 ここではアシスタント代の話がされる。新人のアシは1日1万、週4日で月16万、ベテランは月38万、3人合計月69万円。その他、交通費、食費がかかり、担当は「コミックス出るまでは赤字! 10週打ち切りなら赤字!」と厳しい現実を示す。これも、金額はそれぞれだろうが、現場の実態で、週刊誌連載だとマンガ連載ではほとんど生活ぎりぎりで、黒字は単行本化(マンガ界では「コミックス」と呼ぶ)で生まれる。この事情は、後に触れるが、じつは出版社にとっても同じ。これはマンガ制作の経済的側面である。

 図06 同p46 脚本に当たる大場つぐみの「ネーム」と小畑健の「ネーム」

 本作の面白さの一つに、実際にその巻で使った場面の、脚本側(大場つぐみは過去「ジャンプ」でギャグマンガを連載していた)の「ネーム」と、それを小畑が描き直した「ネーム」を比較して載せていることがある。これを見ると、大場のネームの絵がギャクマンガ的な平面的なものなのに対し、小畑は空間をもった奥行きと動きを加え、さらにコマの配置による展開を変えていることがわかる。アイデアとしてのマンガが、いかにして商業的なマンガ原稿になるかという過程の、ひとつの側面を見せてくれる。絵の配置をコマの構成で時間化することが物語化したマンガ表現のキモであることがわかる。

○原作・宮崎克、漫画・吉本浩二『ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から』1 秋田書店2011年

 取材をもとにした手塚治虫内幕物。「マンガ家」イメージの成立にとって手塚治虫の存在は大きい。手塚の常識を外れた挿話の数々は、彼の「神様」神話とあいまって流通し、死後むしろ増幅し、現在のマンガ家イメージや制作現場のイメージに大きな影響を与えている。とりわけ、それまで業界内情報だった編集者サイドの情報が表に出始めた80~90年代、マンガ家-編集者の関係もまた広く共有されるようになる。手塚神話とマンガ家像の読者共有にマンガ編集者が介在していることに注目したい。

『創作秘話』は、1巻には巻数表示がないが、好評のためか、その後4巻まで刊行され、TVドラマまで制作された。マンガ家及び制作現場に関する内輪情報が、TVやネットを通じて、90年代以降も一種の「都市伝説」的な神話を形成していることは、我々が「マンガ」というイメージをあらためて検証するときに、批判的に解読しなければならない事象である。

 図07 同 頁数不明 『ブラックジャック』担当編集者の失敗談

 担当になった伊藤嘉彦(元秋田書店)の証言をもとにしたらしい場面だが、業界ではよく知られた挿話で、TVでも取り上げられている。手塚は切迫した締め切りにもかかわらず、担当の伊藤に「3つ話を考えた」といい、伊藤は思わず「どれが一番早いか」と問い、手塚の怒りを買う場面。

実際に、マンガ家と編集者はアイデア段階から打ち合わせをし、共同作業のように作り上げてゆく場合が多い。浦沢直樹と長崎尚志(元小学館編集者)のように、原作者とは別に原案者といっていい存在として盟友的な関係になる作家・編集者も少なくない。海外では、多くの場合脚本が別にあり、脚本家とマンガ家(アーティスト)は分業化されていることが多く、出版社の編集者が日常的に原案作成に関わることは少ない。日本のマンガ編集者制度は特異なもので、この制度の研究も日本マンガの成立過程を解く重要な要素である。

『手塚治虫 創作の秘密』45分 「NHK特集」1986.1.10放映 ※ビデオテープ映写

 1985年手塚の制作風景。46年からデビュー40周年。84年講談社手塚全集300巻完結。

81~86年『陽だまりの樹』(ビッグコミック)、83~85年『アドルフに告ぐ』(週刊文春)、88年『ネオ・ファウスト』(朝日ジャーナル 未完)。『ネオ・ファウスト』『グリンゴ』『ルードヴィッヒ・B』が絶筆未完。
85~86年当時、『三つ目がとおる』など毎年1本のTVスペシャル枠アニメ放映。
1989年、昭和天皇逝去の直後、2月9日逝去。1928年11月生、60歳(放映時には3歳上としていた)。
アイデアの話 編集者の苦労 手技としてのマンガ(円が描けない)

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