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夏目房之介の「で?」

2013年京都学講座講演「絵巻物からマンガ」レジュメ

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花園大学 2013京都学講座「絵をよむ」 82日(金)13:30~14:50 夏目房之介

 「絵巻物からマンガ 視線の運動」

はじめに 絵巻の面白さと読み方

 スクロールしてこそ味わえる絵の展開の面白さ 読み手の視線が紙面を滑ってゆくこと→ 時間の展開

図①『鳥獣人物戯画』甲巻12c. 「異時同図」による兎と蛙の相撲 相撲的な合理性による技の展開が見られる

 もし、相撲の技の解説とともにこの二つの相撲の絵を見れば、あきらかに組み→投げの展開と見える

1)絵巻物の視線運動

 往々にして美術館展示では「静止した横長の絵」を眺める体験になってしまうが、巻物を引き出しつつ、次第に展開する絵を「語り」ながら眺めてゆく視覚体験=「読み」の体験は、絵巻というメディアの特有の「面白さ」を感じさせる。この視覚体験を「物語り」の推移に活かしたのが、日本の絵巻物の特徴だったとされる。

図②『信貴山縁起絵巻』飛倉の巻12c. 冒頭、長者の家での騒動 立ち騒ぐ人々 → 鳴動する倉 飛ぶ鉢

 )家の塀により空間の仕切りが視線を上方に狭め、立ち騒ぐ人々の目線と絵巻の展開方向(右→左)が一致している。読み手の視線は、人物や彼らの目線方向に誘導され、急に右方向に向いた女房のところでいったん止まり、

)塀の稜線に沿って下方に降りる。そこにいる3人の女は、一人が上を見て倉の「出来事」を、二人が下を見て「転がり出る鉢」を注目させる。人間の視線は、人物にまず目が行き、倉や鉢には行きにくいところを、人物の目線方向を介して「何事か起きている」期待とともに、倉と鉢の「出来事」へと誘う。

 )鳴動する倉を過ぎるとシークエンスが変わり、倉左側の稜線を境に次の場面へ。

)人々は何事かを追って左、門の外へと殺到。彼らの目線は、徐々に角度を大きく上に向けてゆく。

)海の上に浮かぶ倉と鉢が左上方に見切れ始めると、人々の目線は仰ぎ見る垂直方向に変わり、それと同時に海の幅が広くなる。すなわち、倉が次第に海上に遠のいてゆくかのような錯覚を生む。さらに、

)海上の波立ちが紙面を覆い、倉の先=左下から見迎える人物は、右上方を見て、強い風に吹かれている様。鉢と倉がヘリコプターのように風を巻いて飛び去るかのような躍動的な印象を与える。

図③ 『信貴山縁起絵巻』登場人物の目線と場面展開の模式図

 建築物、人物(目線)を絵巻の展開方向と合わせて効果的な「読み手」の視線運動を作っている

2)視線運動と「物語」の文脈的「読み」

 こうした視線運動の力学は、大迫力実話ミステリー大作であった『伴大納言絵詞』上巻の「応天門の火災」場面でも効果的に使われた。高畑勲はこの「俯瞰移動撮影」効果を〈まるでヘリコプターに乗って、「応天門の炎上」という大事件の騒然たる現場の上を超低空で飛んでいるような気分になる。こうした臨場感は、ヘリコプターや飛行機による空撮ドキュメンタリーの出現以前、誰も実感したことはなかったものであ〉り、〈きわめて映画的・アニメ的と感じられる〉としている(註1

 躍動的な絵巻のみならず、現在でいえば「少女マンガ」的物語メディアであったろう図④『源氏物語絵巻』12c.)など女性向け絵巻にも、建築の稜線や室内パーティション、畳の縁などと人物の配置、詞書による視線の誘導が見られる。図⑤『源氏物語絵巻』視線模式図

こうした読み手の視線運動に介在する絵的要素は、人物(顔、目線)、建築、風景、詞書などで、これらを「読み」の方向(右→左)の時間流が結びつけてゆく。また、一定の物語が展開すれば、そこに生じる「次の期待」や、登場人物の同一性による「文脈」が、逐次生じる絵的要素を高次の物語に回収しつつ「読み」を多層化させてゆく。この「絵や文字」の展開と「物語」の文脈的関係は、現在のマンガでも基本的に変わらない。

3)絵巻物はマンガやアニメの源流なのか?

 しかし、高畑のように現代の視覚メデイア体験の枠組みを素朴に投影し、中世絵巻の視覚体験をマンガ的、アニメ的とみなし、それをもって「源流」とする考え方は問題がないだろうか?

 まず、ここで結び付けられる「マンガ」「アニメ」の概念は、後世、歴史的に成立したメディア・様式についての言語化であり、共通する要素だけを拾い上げて同一性を強調すると、多くの歴史性を排除しかねない。

 物語メディアの形式のみでいっても、絵巻物とマンガ、アニメには、近代印刷、映画技術の移入など、メディアの成立過程が排除されてしまう。そのため、マンガやアニメは、日本の伝統を直接継承し発展した固有文化であるかのような錯覚が生じる。このとき「文化」という語は純粋化され、理想化されやすい。実際は、マンガもアニメも世界的な交流の中で成立した、もっと混沌とした大衆文化だった。

 現代のマンガ、アニメを成り立たせる歴史的な条件、近代社会の成立と大衆の視覚文化としての側面、西欧の衝撃によるメディアの変容など、多くの成立条件を排除しかねない。いわば「マンガ」「アニメ」という概念を純粋化し、非歴史的な伝統概念に包摂してしまう危険がある。

 そもそも「マンガ」という概念自体が歴史的なものであり、現在のようにコマ構成と物語の結びついた形式で定義する傾向は、日本では1960年代後半期から盛んになった。それ以前は、むしろ「絵」の種類、滑稽で簡潔な絵を指して「漫画」とする傾向が強かったし、明治期に「ポンチ」ではなく「漫画」を選ぼうとした傾向には「カリカチュア」の訳語としての機能が求められた(註2

 たとえば、絵巻物から黄表紙にいたる中世~近世のメディアは、基本的に「声に出して読む」文化であったと思われ、その点で明治中期以降の黙読文化としてのメディアとは異なるメディア体験を持っていたと思われる(註3。そのような差異を排除、忘却することは、歴史そのものを平板化してしまう。

 また、高畑は前掲書で『伴大納言絵巻』の「異時同図」による子供のケンカ場面をマンガのコマで切り取り、そこにマンガ(映画のカット)との類似を見ている(図⑥)。が、逆に現在のマンガからコマを外して絵巻物に転換することができない以上、これも現在の形式を投影した捉え方に過ぎない。

4)絵巻物とマンガは無関係なのか?

 日本中世絵画史の山本陽子は、マンガのコマのように時間空間を分節した画面を持つ「掛幅画」が〈説教師の語り口が、視聴時間を左右する〉点などで、現代のマンガとは異なることなどを指摘した上で、現代マンガ的な「コマ」に近いものは江戸期に成立していたが、それらがストーリー表現にならなかったことを指摘、マンガとそれ以前の絵画表現との連続性についての議論を示唆している。

 〈マンガの起源をどこに置くかは、日本文化の中でマンガとは何か、マンガにとってコマとは何かをいかに定義するかによって変わってくるものであろう。そこであらためて、マンガ研究家とそれ以前の文化史、それ以外の分野の視点も加えて、論議を重ねてゆくことが、まず必要なのである。〉(註4

 「起源」が問題であるかどうかはともかく、山本が批判的に取り上げている90年代の拙著は、たしかに美術史への無知が多くあり、その後考えをあらためた部分もあって、ここでの山本の問題提起には現在では肯定的になっている。私の問題提起は、基本的に戦前からあった「漫画史観」への対抗、相対化だった。

 山本もいうように、文化の態様のあるレベルだけを取り上げれば、そこに連続性を見出すことは可能で、それ自体を即座に否定すべきものではない。

 しかし「マンガ」「アニメ」という現在のカテゴリー用語をそのまま用いて連続性だけを強調するとき、そこに政治的な文脈で語られる場合の危険が指摘される必要がある。

 一方で、マンガを視覚文化史の観点で捉え返そうとすれば、当然そこには洋の東西を問わず、歴史的な連続性と非連続性双方の議論が可能になる。

 一例をあげれば、山本も指摘した「マンガのコマ」なるものを、どう捉えるかによって、歴史の射程は大幅に変わる。古代の石版にある聖人譚(誕生、覚醒、死などの分節)、西洋のタペストリー、中国の巻物、連環画、ホガースの連続版画、テプフェールの版画小説、米国のコミック・ストリップ、日本の絵巻物、奈良絵本、江戸期の手妻入門書、黄表紙、ポンチ本などなど、これらのいずれにも「コマ」的な分節が見られる。それらに、どのような時間や空間の分節と受容の意識があったかを比較研究する領域を仮定できれば、共通の関心と問題意識をもって論じることが可能だろう。同時に「マンガの起源」という発想は相対化される。

 佐々木果は、近代の視覚文化の変容の中で、「絵を区切ること」の意識の変化をテプフェールに見る(註5。「マンガ」を視覚文化全般の中で捉えなおそうとするこうした試論・仮説の問題意識の中で、あらためて「絵巻物」などの先行表現との関係が問われることになるだろう。

旧来の「漫画史観」 古代 法隆寺落書き →「絵巻物」→「鳥羽絵」「黄表紙」「北斎漫画」→近代戯画→

欧米 欧州17c.視覚文化の変化 →カリカチュア、連続版画からテプフェール的な「コマ」へ →新聞マンガ

                       図⑦ロドルフ・テプフェール『ムッシュ・ヴィユ・ボア』

日本 江戸期視覚文化の変化 →近代戯画、ポンチ、漫画 →大衆社会と映画/漫画 →戦後コママンガの隆盛

 同場面を繰返す絵巻物(岩佐又兵衛)、図⑧手品入門書『天狗通』(18c.

枠組 世界史的な視覚文化の変化 大衆社会とメディアの変化 物語と登場人物及び時間分節意識の変化

5)絵巻物とマンガの物語り方

 絵巻が、物語の生成進行につれて、逐次登場する人物、場面、詞などと文脈的に相関しつつ「物語」を生成してゆく構造は、現代のマンガと同様である。が、このレベルでは、各文章分節が文脈的に物語を生成する小説・説話も、シークエンスの映像連鎖と音声が文脈的に物語を生成する映画とも、構造的には相似する。

 マンガの場合、枠線で囲まれた「コマ」(場合によって枠線はないが)画面の連鎖と構成が、文脈生成のおもな要素となる。ティエリ・グルンステン『マンガのシステム』では、コマの連鎖はたんに逐次前後のつながりで時間を生成するものではなく、遠く離れた複数のコマと結びついてゆくネットワークである(註6。このネットワーク状の時間を、曖昧な長時間から瞬間にいたるまで厳密に計測しうるカテゴリーとして分節するのが、現代のマンガの「コマ」と呼ばれる機能だとすれば、画像の切り取り方とともに時間の切り取り方と並べ方に、まずは絵巻物とマンガの「物語り方」の差異が見出されるかもしれない。

 しかし、この問題は論理階梯のレベルを慎重に見極めないと、言語化が困難な領域でもある。

1 高畑勲『十二世紀のアニメーション -国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの-』徳間書店 1999年 p71

2 宮本大人「「漫画」概念の重層化過程 -近世から近代における-」「美術史」第154冊 20033月 参照

3 前田愛『近代読者の成立』岩波現代文庫 2001年 参照

4 山本陽子「マンガ以前の日本絵画の時間と空間表現 -マンガのコマとの対比において-」 『絵巻の図像学 「絵そらごと」の表現と発想』勉誠出版 2012年所収 p297

5 佐々木果『まんが史の基礎問題 ホガース、テプフェールから手塚治虫へ』オフィスヘリア 2012年 参照

6 ティエリ・グルンステン『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』青土社 2009年 〈ネットワークにおいて、それぞれのコマはどのような(複数の)コマとも、遠く離れた特別な関係をとりむすぶことができる。〉p239 〈間接論理学は次の三つのレベルの分節=連鎖をとり扱うことになる。はじめの二つは同質的なもので、一つはイメージの鎖に、もう一つは言葉の鎖に関わる。三つめは混成的なもので、図像的なシークエンスと言語的なシークエンスとの分節=連節に関わるものだ。〉243~244p 〈媒体の表面で複数のコマが共存在しているという共時的な次元と、読みの通時的な次元〉278p

図① 『鳥獣人物戯画』甲巻12c. 冒頭 京都国立博物館『大絵巻展』図録 2006年 p137~138

図② 『信貴山縁起絵巻』飛倉の巻12c. 冒頭 便利堂「絵巻物シリーズ」レプリカ

図③ 『信貴山縁起絵巻』冒頭 模式図(夏目)

図④ 『源氏物語絵巻』12c.) 「柏木(一)」「鈴虫(二)」一部 佐野みどり『じっくり見たい『源氏物語絵巻』小学館 2000年 p12~13,p32~34

図⑤ 『源氏物語絵巻』「柏木(一)」「鈴虫(二)」一部 模式図(夏目)

図⑥ 前掲 高畑『十二世紀のアニメーション』 p86

図⑦ ロドルフ・テプフェール『M(ムッシュー).ヴィユ・ボア』(19c.)佐々木果訳 オフィスヘリア 2008年 p9

図⑧ 平瀬輔世『天狗通』安永81779)年 部分 山本慶一「奇術コレクション その2」パンフレット 2000

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