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夏目房之介の「で?」

無意識の間

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ターミナル駅で下車してホームを歩いていたりするときによく感じるのだけど、あれだけ大勢の人間が互いに異なる方向に向かって歩いているのに、意外なほどみんな一定の距離を保ってすれ違い、混乱しない。あれって、よく考えると凄いよなあ、って以前から思っているのだった。
そんなわけで、自分がどう対処しているのかを注意してみると、けっこう微細な判断を身体的に反射させて方向や速度、距離を調整している。足先の運びを、注意深く相手との距離で計りつつ、微妙にコントロールしているんである。
目がひどく悪いのに眼鏡をかけない人と一緒に同じ状況にいると気づくのは、どうもそういう微妙な調整をしていないために、直前に避けたり、ぶつかったりする。その微妙なコントロールは、もちろん無意識にやっているので、習慣的なものなのだが、じつは一度驚いたことがある。慢性副鼻クウ炎の手術で一週間ほど入院したとき、バリアフリーな環境に数日いただけなのに、外出許可が出て町に出たとき、車の行き来する路地を歩くのが怖かった。そのとき、人間って都会ではけっこうストレスに会ってるんだなと気づいた。同時に、かなり遠い距離にいる人や車や、あるいは横道から出てくるかもしれない自転車など、いろんな可能性を換算して、だいぶ手前から歩速度、方向などを調整しているのも感じたのだった。
これが何を意味するかというと、僕らは無意識に環境からの情報(おもには視覚、聴覚、場合によって触覚)を動員して、かなり錯綜した様々なレベルの判断を総合し、事前に脳の中でシュミレーションをして、その反応を用意するということだ。それは、即座に身体反応として反射的に筋肉を動かすし、その方向性も決められる。簡単な例としては、大きなヤカンを持ち上げるとき、水が入っているかどうかを、最初の接触で判断し、その重さにあった持ち上げの方向と力を出力する、ということだろうか。
ということは、この反応を利用したトリックも可能ということで、僕が甲野さんのところで経験した不思議な技とかも、おそらくはそういうことなんだろうと思う。太極拳の推手でおぼえた技も、八卦掌をやってたら自然にできるようになってしまった合気道で使うような技のようなものも、多分そういう反応システムと関連するんだろう、と思う。多分、だけど。
で、なぜ、それらの技みたいなものがなかなか解析できないかというと、ひょっとして、駅などで人間が自然にお互いにやっているような複雑な反応のシステムが、じつは複雑な要因が多すぎて、分析できないからではないのか、ということなのね。違うかもしれないけど、「気」の不思議に関する神話的な解説よりは合理的な気がする。いわゆる遠当ての類も、だいたい同じ練習をしている人たちの間で起こるようなので、そういう領域の問題ではないか、と僕は思ってるわけです。あくまで、推論ですが。

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