気押されなかったこと
一応書いておこうかな。
バリからの帰国便で、ろくもでない男に注意をして、いやな思いをしたことを書いたけれども、そのときに自分でも驚くほど落ち着いて、「ケンカ売ってんのか、おっさん」とか「やるのか、じじい」という売り文句(多分相手はそういうことをいう常習者で、しかし手を出したら負けというのも知り尽くしてやってる)にも、まったく気押されずにいられたことが、どうやらやっぱり八卦掌練習の成果だったということについて。
多分、以前の僕なら、こういうとき、見た目冷静でも、じつは心臓が飛び出るほど気が頭に登ってしまい、なかなか下がらなかったはずだ。そういう心身状態は経験上よく知っているし、そもそも僕は肉体的な喧嘩をしたことがない。問題は、実際に喧嘩をしたらどうなるかは、経験がないからわからないけど、やるなら応じてやろうという気持ちにはなったこと(喧嘩慣れしてる相手だったら負けるだろうけど、それでもとにかくムカついてたから)。これはある種「自信」ではあった。
でも、事実やりあったらどうなるかという問題よりも、気押されないという心身の状態を保てたことが重要で、それは練習の成果だろうということが僕にとって大きい。実際、おそらくその結果、最後には彼はその場を収めるために、自分から握手を求めてきた。こういう人間は、相手がビビって引くことを想定してるはずなので。
李先生的にいえば、気血を下げる訓練をしているのだから、そういう場合でも落ちついていられるのだ、ということになると思う。そして、心身の自覚としても、その理解のほうが妥当だという気がする。現実に闘ってどうなるかについての自信というより、その場で気血を下げて応対できたことに重要性があるということだ。これって僕にとっては、けっこう画期的な変化なのであった。