花園大集中講義終了
丸二日間の集中講義終了しました。映像資料を見せながらの講義は、やはり反応よかった気がします。
最終日は、また西のほうの研究者たちと交流することができました。大阪から「COMの残党」であった中島隆氏も来てくれて、一緒に楽しく歓談。
さて、終了日翌日、今回はやや寝不足気味だったので早く寝たせいで、8時半には起床。近所の公園で練習後、チェックアウト。妙心寺をぶらぶら歩きながら抜け、歩いて仁和寺観光。庭園はなかなかよろしかったです。周囲に山や林があり、ちょっと奈良を歩いているようなゆったり感にひたれましたね(本当は奈良に遊びに行きたかったので、嬉しい)。再び妙心寺を抜けて帰る途中、隣華院で長谷川等伯「山水図屏風」、狩野永岳「西園雅集図屏風」などが公開されていたので鑑賞。これもなかなかよろしかった。やっぱり気分に余裕が生まれると、同じお寺めぐりでも全然違うね。
その後、烏丸御池に移動。京都国際マンガ・ミュージアムに行き、「マンガ・スタイル ノース・アメリカ展」を観て、帰宅の途に。いつもは気分的に余裕がなく、結局観光せずに帰ることが多いのですが、今回はできました。でも、奈良にも行きたいなあ。
後期集中講義レジュメ
2012.1.27~28 花園大学集中講義 日本マンガの表現・制作・読者 視覚資料で読む 夏目房之介
第1日 1限目
1)マンガの表現
○アニメとマンガ ※アニメDVD映写
『「鉄腕アトム」ベストセレクション 誕生編』数分(1963) 『佐武と市捕物控 巻之一』数分(1968)
日本TVアニメ草創期の「紙芝居」といわれた「動き」。マンガ原作と「アニメ」の深い関係。
毎週放映のための効率化から、止め絵の様式美への展開。
東映動画などディズニー的フルアニメーションを志向した「漫画映画」からの反発の中、マンガ雑誌・単行本~TVアニメ~マーチャンダイジング(商品化権)の複合市場(メディア・ミックスへ)の展開と拡大によって、日本のマンガ~アニメ市場の基礎が確立してゆく。高度成長期の同時期、映画産業はTVに取って代わられ、マンガは可処分所得の上がった子ども、年齢層の上がった青年読者によって消費され、ともに市場を拡大する。
2限目
○マンガと映像 『まんがビデオダイジェスト』士郎正宗『仙術超攻殻オリオン』数分 ※ビデオテープ映写
「まんがビデオ」(2000年発売?)ソニー・ピクチャーズのプレス・リリース「まんがビデオの商用配信実験開始」〈提供コンテンツ「まんがビデオ」の概要 「まんがビデオ」とは、まんが原画に、デジタル処理による映像演出と豪華声優陣によるセリフ、音響効果を加えた新しい映像作品です。原画ならではの躍動感に加え多彩な演出効果が作り出す臨場感により、迫力あるコンテンツがご覧いただけます。〉
http://www.sonypictures.jp/archive/spej/news/20030110.html 2003年1月14日付より
※ビデオ映写後、原作該当ページを実物投影機で映写。両者を比較。
士郎正宗『仙術超攻殻オリオン ORION』(青心社 ‘91年) 図1
01)音(声・効果音・音楽)、色、動き(CG) その相乗効果の印象
人物などアップに寄り、視野を狭めてパンなどで「動かない絵」をとらえる視覚に運動を与えている。
音は、本来は映像の「時間」に同致している。ここでは「動かない絵」に「動き」の印象を与える。
少女セスカの走り、息使い(18~19p) 術者同士の掌の戦い(43~44p) 記号がセスカにまといつく(31p)
「音」そのものと、原作のコマをまたいだ音喩の文字の効果(76p)。絵、コマ、文字で時間を重ねる。
02)コマの相互的・文脈的な落差の感覚
小さなコマ(横→縦)の集合からページの「めくり」→見開きにわたる大ゴマのかもし出す「迫力」は、意外なほどマンガ原作のほうが大きい(47~49p)。映像の変化しないフレームでは、コマ出現の時差で補っている。
マンガでは1コマ(1フレーム)単位ではなく、つねにページ、見開き単位でのコマ相互の落差関係の印象が圧縮・開放の心理効果となり、時間感覚を演出。
コマの大小、大きさ、並びによる運動(スサノオの回転)の再現(53~54p)→映像を歪めて表現
→今後、携帯、マンガなどデジタル化の中で、こうした画像処理系表現が発展する可能性。
80~90年代以降の技術革新と情報環境の変化。
原作マンガを映像化する試みと比較することで、マンガのコマ構成、ページの効果=文脈的な読みによるマンガの時間を確認できる。
ティエリ・グルンステン『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』青土社 2009年
〈間接論理学は次の三つのレベルの分節=連鎖をとり扱うことになる。はじめの二つは同質的なもので、一つはイメージの鎖に、もう一つは言葉の鎖に関わる。三つめは混成的なもので、図像的なシークエンスと言語的なシークエンスとの分節=連節に関わるものだ。〉243~244p 〈分散的なネットワークという組織形式〉276~277p
〈媒体の表面で複数のコマが共存在しているという共時的な次元と、読みの通時的な次元〉278p
3限目
○マンガのコマ
井端義秀『夏と空と僕らの未来』(2005)11分 私家版 個人製作アニメによる「コマのあるアニメ」の試み
※映写後、紙のマンガ作品を実物投影機で映写、比較。 図2
マンガ作品との比較
図1 1~2p マンガのコマの運動感再現(あきらかにアニメのほうがいい
雑誌の「読み」感覚の再現 ページのたわみ 「めくり」感
図2 5~6p 左上 コマ内に紙面とコマを描きこむ(アニメの方は、映像フレームという異質なメディア特性の中で同じことが起こる
図3 7~8p 紙面を裏の紙面から破りぬける表現の「衝撃」差
アニメでは表情を微分 マンガのコマ構成はむしろ稚拙
音声と文字の関係 文字を消す場合と残す場合
マンガの「読み」とアニメ体験の複合的な感覚 リテラシーの融合
図4 21~23p コマ自体が「動く」アニメ映像にある運動感と時間
図5 27~28p 映像フレームとコマの入れ子状態の面白さ
後半はアニメ的な運動が前面化(色彩 コマ構成は退き、コマ展開が前面化
コマ構成〈「紙面」をレイアウト的にコマに分割すること。〉
コマ展開〈非連続であるはずのコマの並置を、あたかも連続しているように見せること。コマの中に何が描かれているかとは密接に関係する。〉伊藤剛『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005 160p
学習院大学での講義時に集めた『夏と空と・・・・』感想より
・マンガをどうやって読んでいるか気づかされた
・ずいぶん複雑なことを同時に行っているんだな
・マンガを読んで「音」を想像しているのに気づいた
マンガとアニメの特性
・動いてしまうと、絵の奇妙さは気にならなくなる
・アニメになると絵の狂いがより顕著になる気がする
・マンガはもう一度読みたいところに戻れるが、アニメは戻れない [不可逆性]
→時間の質 ビデオ、DVDの可逆性 機械を通した切断とリバース操作と、目の一瞥か手のめくり(ページ、コマ単位の「再生」 意識内での「止め」(なかった時間) 時間の質の違い
マンガ 時間=空間としての変換受容の快感 アニメ(映像) 時間そのものの受容快感
文字、言葉の時間変換と物理時間・心理時間
・カットのつなぎではなく、パンの速度で時間が表現されていた
・コマの動きに効果音がついていたのが面白い
・コマの中に自分も入っている気がして、マンガを普通に読むより引き込まれた
・実際には特定のコマのみを順番に追えないので、マンガや一般のアニメより「操作されている感」が強まる
・マンガは左上も視界に入りストーリーを先取りしてしまうことがあり、作者の意図を越えて読み手に左右されるのがマンガの特徴では
・女の子がコマから飛び出す場面は、普段マンガで読むことがない。純粋に「マンガを読む」行為の再現アニメとは思えない →歴史性 手塚の例など
自分の受容感覚の対象化
・不覚にもグッときた 内容がすべてじゃないですね
・初めは「確かにこんな風に読んでいるな」と思ったが、よく考えたら自分の読み方とは早さが全然違う気がする。気にいった場面だと20~30分眺めている
・子供の頃はマンガを頭の中でアニメ化していたが、最近は客観的に読んでいるので映像化されないことが多い
〈漫画における空間は時間に置き換えられる〉泉信行(イズミノ・ウユキ)『漫画をめくる冒険 下』ピアノ・ファイア・パブリッシング 2009年 同人誌 39p
図3 同書38p「映像と漫画における「認識可能な範囲」の違い」
図4 同39p 「スコット・マクラウド「マンガ学」p108」
4限目
2)マンガの言説
○コマの「発見」とマンガの「読み」
マンガの「コマ」(その展開や構成、ページ)は、1960年代後半期、手塚治虫が戦後マンガの「起源」として称揚され、「(戦後)マンガ史」のイメージが確立されたとき、「映画的手法」との比較の中で批評的に「発見」されたと思われる。同時に、「マンガのコマは、映画より自由な受容を可能とする」という言説も立ち上がる。これは、かつて映画においても自らを称揚する言説[註1]としてあったものと似ている。
それ以前、たとえば「漫画」と「絵物語」を区別するのは、コマのありよう(表現形式)ではなく、むしろ絵の質だった[註2]。「漫画」は漫画的な絵(簡略で滑稽な絵)によってイメージされたが、1960年代後半、手塚の主流化とともにマンガ=ストーリーマンガとし、物語を生成する表現形式に「マンガ」の定義が移行する。おおむねグルンステインの指摘する「システム」にあたる。日本のマンガ論において「コマ」が重視されるのは、これ以降といっていい。現在のマンガ論も、この流れの発展形としてある。こうした言説の形成は、戦後生まれ読者層の成長に伴った、マンガを固有のジャンルとして自律的に扱おうとする傾向と無縁ではない。
註1 石子順造が中井正一「繋辞(コプラ)の理論」を引いているように、映画におけるカットの連続への観客の受容の自由度の批評的注目は早くからあった
註2 ET「絵物語と漫画の違い 1950年代の少女雑誌」 竹内オサム編集「ビランジ」28号 2011
峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」「COM」1968年3月号
〈映画のカッティングが、まんがのコマにおきかえられたとき、まんがのコマは新しいモンタージュを持った。[略]見開きページは、人間の視覚のなかに一度にとびこんでくるという印刷媒体の利点を活用し、コマ割りでドラマの経過に同時性を持った。時間を自由にあやつった。なによりも映画やテレビが、一方的にあたえるものであるのに対し、まんががコマ割りの中に、読者の想像力を参加させるという発見をしたことは大きい。〉(下線、太字=引用者)
石子順造『現代マンガの思想』太平出版社 1970年
〈文学では表象と表象をつなぐ「である」「でない」という繋辞がある。[略]しかし、映画のカットによる連続にはこれがない〉(67~68p) →見る者(大衆)の想像力の参与可能性
〈中井がいう「映画」を、連続マンガとおきかえ、「カット」をコマに直せば、連続マンガの大衆性とコマの文法との重要性が、ほぼ適切にいい当てられるのではないだろうか〉(68p)
〈映画やテレビでは同時に二カットを見ることはないが、マンガでは、数コマあるいは見開いた両ページの全コマを視角に入れながら、しかも一コマずつを追っていく。[略]受け手は、コマの大小に応じて一視野を意識的・無意識的に自己限定する運動にのらなければならない。/しかも各コマを受けとる時間もまた、受け手のものなのである。[略]マンガでは、自分が見ていたいと思うコマは、それだけ見ていることができる。だからとばしてみることもできれば、前にもどることも勝手だし、数コマを比較して一コマとして見てもいい。〉(70p)
〈マンガの場合のコマの文法は、その繋辞の論理からいっても、劇の構造化が、映画よりいっそう受け手の側の知覚・認識との照応に基づくものであることを示していないだろうか。[略]逆に、劇としてマンガは、作家の主張が適切に伝達されにくい〉(71p)
第2日1限目
○マンガ語りのメディアによる共有
『BSマンガ夜話 「ハチワンダイバー」』2008.9.16 60分 ※DVD放映
柴田ヨクサル『ハチワンダバー』「週刊ヤングジャンプ」2006~
コマ構成とネーム(フォント)への注目 ブログ「テキスト弄び系」や「エヴァ」との関係示唆
実際の棋士による「リアリティ」の証言 「番長マンガ」としての「読み方」提示
多様な読者の「読み」を提示(女の子、おっぱい ~ 深慮、アイデアの視覚化 など)
2限目
『同 「ハチミツとクローバー」』2998.6.19 5分 「夏目の目」 ※DVD放映
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』「キューティコミック」「コーラス」「ヤングユー」 2000~2006
「視線誘導」概念の共有 →菅野博之『漫画のスキマ マンガのツボがここにある!』美術出版社 2004など
→泉信行『漫画をめくる冒険』上下 2008,2009など(読者受容論の立場から「視線力学」を提唱) 図5
「夏目の目」の作り方 ※写真データ使用?
3限目
3)マンガ制作と作家
○マンガ制作現場と作家像
『手塚治虫 創作の秘密』45分 「NHK特集」1986.1.10放映 ※ビデオテープ映写
1985年手塚の制作風景。46年からデビュー40周年。84年講談社手塚全集300巻完結。
81~86年『陽だまりの樹』(ビッグコミック)、83~85年『アドルフに告ぐ』(週刊文春)、88年『ネオ・ファウスト』(朝日ジャーナル 未完)。『ネオ・ファウスト』『グリンゴ』『ルードヴィッヒ・B』が絶筆未完。
85~86年当時、『三つ目がとおる』など毎年1本のTVスペシャル枠アニメ放映。
1989年、昭和天皇逝去の直後、2月9日逝去。1928年11月生、60歳(放映時には3歳上としていた)。
アイデアの話 編集者の苦労 手技としてのマンガ(円が描けない)
4限目
○マンガ編集者
『あしたをつかめ 平成若者仕事図鑑 239 マンガ編集者』24分 NHK教育2010.5.18放映 ※DVD映写
マンガ編集者の現場 編集者とマンガ家の関係 新人の育成
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