本日(12日)の李先生講習会
先週の土曜の体験教室は、経験者だけだったのと、雨で湿気を体が吸っているため、それを排出するために対錬(対人練習)をやったんだそうだ。今日も雨で湿気が多い。そういうときは、走圏で気血を養おうとしても、体が重くてなかなかできないので、まずは湿気を体から出さねばならない。そういうときは、対錬や、大きな動きの掌法をやるのだ、といわれ、まず順勢掌で始まった。順勢掌は下勢という、低い姿勢が入るので、かなりハード。ちょっと動いただけで、信じられないほどの汗。1時間たって、15分ほど休憩ののち、こんどはいきなり鷹形走圏。手を左右に広げる形なのだが、これまたしっかり左右に腕を伸ばし、かつ片手のほうを見ながら、肩を落として腰を捻って走圏するのは、相当ハード。それがすんだら、最後に88式の3連チャン。いやあ、凄かった。凄かったし、しんどかったんですが、終わってから外に出ると李先生が「今はどんな感じだ?」と聞く。たしかに、すっきりして気分がいい。雨の日のもったり重い感じがなくなってて、気分も前向きになってる。なるほど、湿気を排出するって、こういうことなんだね。
あと、さすがに88式を3回連続でやるとなると、最後はもう力が抜けてしまうのだが、逆にそのほうがうまく体が伸びて、後ろ重心を保って、スムーズに動けたりすることに気づいた。李先生が「88式を連続してやって疲れたら、力ではできないので、精神でやるんだ」という。僕なりに翻訳すると、意識を使って、力まずにやると、かえってわかることもあるってことなのかな、と思ったのだった。いずれにせよ、汗をたくさんかいて、充実して気分のいい練習だったのだった。
で、今帰ってきたら、当たり前だけど足が痛い。それも、下腿上腿の後ろ側が痛いのだ。う~ん、太極拳だと上腿の前が痛かったんだけどねー。使ってるとこ違うんだ。
追伸
そういえば、昨日李先生はちょっと面白いことを話された。
「八卦掌は、到底できないことやろうとします。どこまでいってもたどり着かないからやるのです」
曖昧な記憶による表現なので、信憑性は低い。要するに「理想」をやれと要求されるが、それはあくまで理想であって、でもそれをやろうとしなければいけない、というようなこと。当たり前のようなのだが、実際練習を始めた頃は、そんな無茶なことを最初からいわれてもな、と何度も思った。多分、そういう練習の話法が中国の伝統的なあり方なんだと思う。面白いと思ったのは、李先生自身、そういう話法のしくみに自覚的なんだな、ということ。いいかえれば自覚的に伝統的な教え方を伝えようとしているのかもしれない。ただ、日本人的に角度がどうとか、足一つ分をどうとか、そういう厳密な形式主義はほとんどない。理想という形は、外側からチェックできる距離や角度はあまり問題ではなくて、何というか、もっと心身含めた全体的なイメージなのじゃないかと思う。
あと、順勢掌の歩法について図解して、円の内に正方形を描き、この方向に動くのだが、円周との接点で必ず回転する。また、その正方形と45度ずつズレたもうひとつの正方形を描き、星型のようにして、こういう風にも動くのだと。複雑なように見えるが、実際には動きは二つしかない。つまり、2が4になり、8になる。8は4であり2である。老子にある、一にして全と同じだとも。易の八卦の応用である。なるほどねー。
練習後、八戒さんからも興味深い話を聞いた。通訳するときは「精神を集中して」とか、そういう訳し方になるのだが、じつは李先生は「提起精神」といっているんだそうだ。精神を起こす、というのかな。で、それって具体的には中正を保って頭をしっかりと上に伸ばし、意識を奮い立たせる、というようなことらしいのだ。つまり、精神的な要素と身体的なありようは、分かれておらず、同じことを指しているんだ、という話。確かに、その場で訳すのは困難だ。でも、頭を起こすことと、意識をクリアにすることは、練習をしていると、あきらかに一致しているのだ。僕らは、どうしたって精神的なことと身体的な運動を別のカテゴリーで言葉で扱うほかなくなっている。事実練習の中で心身が体験していることは、僕らの言葉ではなかなかうまく言述できないみたいなのだ。だから、ある種の比喩でしか、言い当てるのが難しいんだろう。