「国宝 大絵巻展」記念講演「絵巻物の面白さと読み方」レジュメ
九州国立博物館「国宝 大絵巻展」イベント
2008年4月6日(日) 13:30~ 記念講演
「絵巻物の面白さと読み方」 夏目房之介
1) 絵巻は平らじゃない!
絵巻というメディアの特徴と読み方 博物館展示と矛盾する時間表現
マンガもそうだが、じつは屏風なども方向がある(右→左
展示によって左から見てしまうと季節の変化など矛盾が
屏風を平らに延ばすと、じつは曲げる角度で絵の意味合いが変わる場合も
図1 彦根屏風 『よみがえった国宝・彦根屏風』07年 彦根城博物館 2p
曲げる角度によって男女の目線が交わったりすれ違ったりする
屏風は平面ではなく立体的・可動式の家具である
絵巻はどんな時間表現か? じっさいにスクロールしてみる
図2 伴大納言絵詞1 レプリカ 12C. 冒頭
手で調節しつつ巻きながら場面を継起的に見てゆくことによる時間展開
ダイナミックな場面の変化はほとんどハリウッド映画のスペクタクル!
〈もしこれを一定の速度で繰り広げつつ見れば、まるでヘリコプターに乗って、「応天門の炎上」という大事件の騒然たる現場の上を超低空で飛んでいるような気分になる〉高畑勲『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店 99年 71p
遠くに見晴るかす 見上げる 見迎える 目線のドラマ 見えない事件
マンガ同様、手でたぐるアクティブな身体感覚と受容時間のシンクロ
平らに延びた画面を一定速度で横に眺めてゆく鑑賞スタイルではない
時間=読みの方向性と、その視線及び速度変化が「読み」である
2) 絵巻の読者視線 絵巻の「読み」と読者視線の重要性
図3 信貴山縁起 飛倉の巻 レプリカ 12C. 冒頭
図4~5 信貴山縁起 視線方向の模式図
水平視線(上)
a) 「何だ 何事だ?」(まだ事件は見えてこない)
斜め下視線 視線への意識を招き、人物以外のモノに集中させる
b) 「あ、鉢がっ!」(事件主体の登場 塀の斜め線による誘導=マンガのコマにも同じ働き
水平視線(下)
c) グラグラグラッ (瓦が落ち、倉が浮かび上がる)
斜め上視線
d) 「わぁー追えー!」(飛ぶ倉を追って上方へ走る)
垂直上向き視線
e) 「飛んでっちゃうよー」(水面を挟み倉と人々の距離の広がりを感じさせる)
斜め見迎え視線
f) 「あっ空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!いいや倉と鉢だ!」
(見返すことで水面の距離を生み、倉がさらに高く遠くなった印象を作る 飛翔による(?)風の効果 同時に、この冒頭場面の区切りを感じさせる
本来人物に行きがちな読者視線を、登場人物の視線の変化(角度、順逆)によって「モノ」である鉢や倉に意識を向かせ、時間表現をコントロールする
読者視線の条件
● 基礎条件としての「読み」方向=右→左=日本・中国の文字列方向(書物
● 人間の視線の習性の利用
人物(顔、目線、手など)に引き寄せられる
遮蔽するモノの稜線などで方向を規定される
●メディア操作の運動感覚で時間を調節しつつ視線を微調整する
3)「読み」の時間調節
「伴大納言」や「信貴山」のようなドラマティックな視線運動まかりではない
図6~7 源氏物語絵巻 12C. 佐野みどり『じっくり見たい『源氏物語絵巻』』小学館 00年 12~13p 「柏木(一)」 32~34p 「鈴虫(二)」
室内(吹き抜け屋台)の微細な心理表現を、みんな同じに見える顔の表現で、どう処理しているのか?
前提として物語は文字情報で補足し、その場面の画像化として「読む」はず
図8~9 「柏木(一)」「鈴虫(二)」模式図 ジグザグな視線運動
「柏木(一)」
各稜線(現在のコマ枠線に相当)の角度が互い違いで不安や混乱を感じさせる 人物が大きく、衣服・装飾などを注視しゆっくり「読む」時間をもたらす作り
吹き抜けで屋内を覗くことによる「人物心理を覗き見る」効果
「鈴虫(二)」
屏風、畳、柱、鴨居などの稜線で視線を誘導し、稜線をまたぐ視線によって時間や心理的な段落をもたらす(マンガのコマほど強い規定性はない)
顔はみな同じだが、かえって感情移入しやすいのか?
装飾などに注視させ、物語以外の視覚的快楽をもたらす(少女マンガ的?)
4)絵巻はマンガの先祖か?
「絵と言葉による時間的な物語表現」という意味ではYes
動線表現なども豊かだし
だが、そこには時代変化による大きな違いがある
●近代的複製媒体(新聞、雑誌、本)によるメディア特性の違い
●近代大衆社会の不特定多数的な受容者の違い
●明治維新以降の欧米文化の影響(欧州の戯画、米国などの新聞連載マンガ)
●それらに基礎付けられた表現様式の違い(多くのコマとページによる、クローズアップや映画をアナロジーする手法を獲得した物語表現)
たしかに絵巻をマンガ化することは可能
図10 →高畑勲前掲書 86p 伴大納言の一場面コマ割り
〈見る人がおのずと[該当の異時同図場面を]上のように見てしまうとするならば、それはこの場面のなかに作者が、的確なマンガのコマ割り(又は映画のモンタージュやカメラワーク)を、あらかじめひそませていたことを意味する。〉(同上 86p) [ ]引用者註
図11 ある学生の作った「信貴山縁起」冒頭のコマ割り
セリフや顔のアップの重要性 絵巻に顔のアップはない
コマ枠線は「透明な存在」で、見えないものとして読者視線を規定する
吹きだしの枠線とコマの枠線は、それ自体を意味する記号(柱や鴨居の転化ではない)で、カテゴリーの強度が高い そこに「近代」があるのかも?
では、逆に現代のマンガを絵巻化することはできるのか?
図12 (現代青年マンガで一線の、あの人のあの作品の絵巻化)
コマ枠線は存在しないので、すべて外し、絵を時間順に並べて構成
アップが多く、何だかさっぱりわからない
つまり、絵巻→マンガは変換可能だが、逆は必ずしも可能ではない
単純に「絵巻はマンガの先祖で、日本の伝統文化がマンガを作った」と考えるのは論理的な飛躍で、アブナイので気をつけよう