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夏目房之介の「で?」

67年頃のマンガ論について

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マンガ論的な本で多分最初に買ったと記憶するのが藤川治水『子ども漫画論  『のらくろ』から『忍者武芸帖』まで』(三一新書)である。

67年2月刊なので、刊行当時に買ったとすれば僕は16歳。高校2年。当時、十代のマンガ青年に見つけられる範囲では、非常に珍しかったと思う。新書は中学時代から談志『現代落語論』とかCIAの話とかインカ帝国モノとか、けっこう読んでいるので、ある程度定期的に本屋でチェックしていたのだろう。

この直後、石子順造『マンガ芸術論』(富士書房 67年3月)、草森紳一『マンガ考』(コダマプレス 同上5月)なども出ているので、ちょっとしたマンガ論ブームだったのかもしれない。藤川、石子の両著とも佐藤忠男(映画評論家)が紹介文を書いている。佐藤は積極的にマンガを論じた知識人の一人で、藤川についてかなり詳しく彼の中学教師としての組合活動歴などを語っていて、知り合いのようだ。

佐藤は石子本への紹介文で当時のマンガ論について触れて、こう書いている。

〈マンガに関しては、これまで、断片的な議論はたくさんあった。しかし、その大部分は、教育問題としてのマンガ論であり、また、社会批評や大衆文化論の一部門として軽くふれてみたマンガ論であった。しかし、マンガというものが現代文明のうえでしめる巨大な位置が誰の眼にも明らかになるにつれて、より本格的な、美術論と文明論の両方をふまえたマンガ論が必要とされてくることは当然のいきおいであった。この本は、そういう時代のいきおいから必然的に生まれてきたものである。〉(佐藤忠男 カバー折り返し)

 

ここに見られる〈社会批評や大衆文化論〉としてのマンガ論といういいかたは、のち大学以降に僕が佐藤、石子を含む既成評論家たちのマンガ論を批判したくて選んだ言葉に近い。彼らの言葉への違和感が直感的にあり、そこに言葉を乗せようとしたとき選んだのが、そんなラベルだった。

もう一方の、カバー折り返しの表紙側には大島渚の文がある。

〈世はあげてマンガブームであるが、マンガについて本格的に論じた文章にはほとんどお目にかからない。[]石子氏のこの本は、そうした俗流マンガ論への痛撃である。[]われわれが正にマンガ的存在と化してしまわぬため、この本はもっとも有効な戦いの武器となるはずである。〉(大島渚)

 ここで〈俗流〉と呼ばれているのは〈浮薄なジャーナリズム〉の〈ムード的でしたり顔な発言や解説〉(同上)であるとされる。大島にとって当時の風潮は〈マンガブーム〉と認識され、マスコミに多くの言葉が流通し、そのほとんどが知ろうともせずに語る類のものだったということだろうか。マンガを語る言説の多くが、マンガに物申す的な批判的言辞だったのかもしれない。そんな中で、石子、藤川、草森らのマンガ言説は、きちんとマンガに向き合った上でのまっとうな言説として、マンガを認める知識人たちに迎えられ、同時に僕のようなマンガ青年を刺激したといえるだろう。大島の言葉には、マンガを語ることは〈戦いの武器〉なのだという、戦術思考のようなものが見える。

 藤川はあとがきで〈漫画とは芸術の枠内にはいるかどうか、辛うじて入れるにしたって、最後尾にブラさがっている代物でしかなかった。〉(『子ども漫画論』 259p)と書き、しかしそんな後衛だからこそ漫画について書いてきたという。そして、漫画論を書けと〈しきりに奨めてくれた〉のは鶴見俊輔、〈つねに援護射撃をやってくれた〉のが佐藤忠男だったと感謝の辞を述べている。佐藤や鶴見が当時起こりつつあった新たなマンガ論に具体的な影響力を持っていたのがわかる。

 ここであげた三者の中でも、もっとも注目すべきマンガ論は、やはり石子のそれだろう。彼は「序にかえて」で、こう書いている。

〈このところ教育的見地からばかりではなく、もっと広い文明論的な視野に立ったマンガ論を望む声がしきりである。主要な新聞や雑誌の論調にも、しばしばそれをうかがうことができる。

 たしかに近年のマンガの急速な成長ぶり(漫画映画からテレビのCMまでをふくめて)は、マンガの機能面ばかりではなく、その原理、表現方法、伝達までをふくめた、全面的な検討を、マンガみずからが要請してきているといえる。〉(『マンガ芸術論』18p)

 この時点ですでに石子には、マンガを固有の現象として扱う方法意識が強くあった。教育を機能面とし、表現方法、伝達という側面と分け、後者の言説がマンガ自身の発展によって要求されているとしている。さらに、白土三平、水木しげるなど例をあげながら、既存の教育論的マンガ観を逸脱するマンガについて語り、〈楽しみながらよみ流されてきたマンガが、大衆の生活的感覚や心理、思想とわかちがたく結びつけられて、論として展開される必要を準備したのだ〉(19p)という。つまり、マンガに内在する論理を語る必要は、作品作家だけでなく、それを読み、共有し、楽しむ「大衆」とのわかちがたい感覚、心理、思想的な関係の「厚み」にかかわるものとされる。

また、石子は戦前にあったマンガ言説にも言及し、マンガを語る試みはすでにあったとしつつも、しかし〈それらは海外マンガの紹介を主体としており、マンガの独自性の追及にも、充分とはいいかねた〉(20p)とする。ここで言及されている大正8年の全5巻の研究書『漫画講座』も、同13年の『日本漫画史』も、僕は未見なので何ともいえないのだが、想像するに大正期のモダニズムとしてのマンガ言説だったのかもしれない。石子は、輸入思想的モダニズム言説には批判的だったろう。

 石子は、この時期にあってもっとも「自立したマンガ論」を要求した論客だったといえる。また、メディア論、表現論、読者論にも目配りし、戦前のマンガ言説にまで言及しえた。こうした蓄積が、当時よりはるかにマンガ言説のさかんになった現在、すっかり忘れ去られているのは、今となれば、いかにも奇妙に見える。もちろん、その責の一部はあきらかに僕を含む戦後ベビーブーマー世代のマンガ論言説の欺瞞や怠慢にあるだろう。今後、機会があれば、この時期のマンガ言説の紹介とあわせ、なぜそれがのちのマンガ論に接続されなかったのかを記述できればと思っている。

現時点で、自分の記憶にある先行世代のマンガ言説についての印象を一言でいえば、おおむね「つまらない」であった。自分が大好きで、それについての言葉を飢えるほど求めているのに、いや多分だからこそ、先行世代の言葉は隔靴掻痒の違和感を強く感じさせたのだろうと思う。たしかに、彼ら知識人の広い知識と方法意識は今読めば驚くほどのレベルをもっていたものも多くある。けれど、文明論や主義に接続されていったり、広範な(したがって自分には興味の薄い)事例と接続され比較されるにしたがい、自分とは無関係の言葉に思えたような気がする。その点では、現在もマンガ研究やマンガ論に対してある素朴な反撥とかわらなかったのかもしれない。要するに、人の言葉ではなく、自分の言葉で語りたいだけだったのだろうか。いや、そうでもない気がする。

僕個人の感じ方でいうと、ここであげた論者の中では、草森紳一ひとりがあまり「違和感」を感じずに読めたと記憶する。草森は、どちらかというとひたすら作品作家に寄り添い、そこを離れることが少なかった。言葉は直観的な鋭さを持ち、そのことに本人が自覚的だった。彼は『マンガ考』のあとがきで、こう書いている。

〈「マンガ評論家よ、出でよ」などという巷の声もあるようだ。しかし僕は、そんなものはいらないし、また職業的になりたつものではないと思う。ただいろいろな人が、マンガについて発言してもよいと思うし、また学問的に体系づける人がどんどんでてもいいと思う。[]僕の方法論は、マンガの見方であり、紹介であり、あくまでも印象批評、技術批評の枠を越えることはないと思う。これは、浅い志かもしれないが、この浅い志にみあうていどにしか、日本のマンガ界は、日本の読者は、まだすすんでいないからである。〉(同書 266p)

この文は、いろんな意味で僕には「わかる」ものだったし、今読んでもそう思う。

ほかのマンガ論が、抑圧されてきたマンガを称揚しようと肩をいからせたり、ありもしない要素をマンガの功績のように見なそうとしたり、またその勇み足で振り返ってその意に染まないマンガを否定的に語ったりしがちな場面で、草森は独特な冷静さをもっていたように思える。

事実、67年当時とは、まだつげ義春が「ガロ」で矢継ぎ早に短編を載せ、青年向けマンガの表現可能性が開き始めた時点だった。『巨人の星』が人気を得、『あしたのジョー』が始まり、「COM」が創刊された頃ではあるが、本当にまだすべては始まったばかりだったのだ。

僕自身は、数年ののちに大学生となり、70年頃、絵とコマによるマンガ表現論の可能性を展開しようとした。それが果たせなかったとき、こう思った。自分自身の能力だけではなく、ここにはマンガを語る言葉の未成熟と、自分が思い描くマンガ表現論を支えるマンガそのものの未熟があるのではないか、と。

(つづく)

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