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夏目房之介の「で?」

67年頃のマンガ論について

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マンガ論的な本で多分最初に買ったと記憶するのが藤川治水『子ども漫画論  『のらくろ』から『忍者武芸帖』まで』(三一新書)である。

67年2月刊なので、刊行当時に買ったとすれば僕は16歳。高校2年。当時、十代のマンガ青年に見つけられる範囲では、非常に珍しかったと思う。新書は中学時代から談志『現代落語論』とかCIAの話とかインカ帝国モノとか、けっこう読んでいるので、ある程度定期的に本屋でチェックしていたのだろう。

この直後、石子順造『マンガ芸術論』(富士書房 67年3月)、草森紳一『マンガ考』(コダマプレス 同上5月)なども出ているので、ちょっとしたマンガ論ブームだったのかもしれない。藤川、石子の両著とも佐藤忠男(映画評論家)が紹介文を書いている。佐藤は積極的にマンガを論じた知識人の一人で、藤川についてかなり詳しく彼の中学教師としての組合活動歴などを語っていて、知り合いのようだ。

佐藤は石子本への紹介文で当時のマンガ論について触れて、こう書いている。

〈マンガに関しては、これまで、断片的な議論はたくさんあった。しかし、その大部分は、教育問題としてのマンガ論であり、また、社会批評や大衆文化論の一部門として軽くふれてみたマンガ論であった。しかし、マンガというものが現代文明のうえでしめる巨大な位置が誰の眼にも明らかになるにつれて、より本格的な、美術論と文明論の両方をふまえたマンガ論が必要とされてくることは当然のいきおいであった。この本は、そういう時代のいきおいから必然的に生まれてきたものである。〉(佐藤忠男 カバー折り返し)

 

ここに見られる〈社会批評や大衆文化論〉としてのマンガ論といういいかたは、のち大学以降に僕が佐藤、石子を含む既成評論家たちのマンガ論を批判したくて選んだ言葉に近い。彼らの言葉への違和感が直感的にあり、そこに言葉を乗せようとしたとき選んだのが、そんなラベルだった。

もう一方の、カバー折り返しの表紙側には大島渚の文がある。

〈世はあげてマンガブームであるが、マンガについて本格的に論じた文章にはほとんどお目にかからない。[]石子氏のこの本は、そうした俗流マンガ論への痛撃である。[]われわれが正にマンガ的存在と化してしまわぬため、この本はもっとも有効な戦いの武器となるはずである。〉(大島渚)

 ここで〈俗流〉と呼ばれているのは〈浮薄なジャーナリズム〉の〈ムード的でしたり顔な発言や解説〉(同上)であるとされる。大島にとって当時の風潮は〈マンガブーム〉と認識され、マスコミに多くの言葉が流通し、そのほとんどが知ろうともせずに語る類のものだったということだろうか。マンガを語る言説の多くが、マンガに物申す的な批判的言辞だったのかもしれない。そんな中で、石子、藤川、草森らのマンガ言説は、きちんとマンガに向き合った上でのまっとうな言説として、マンガを認める知識人たちに迎えられ、同時に僕のようなマンガ青年を刺激したといえるだろう。大島の言葉には、マンガを語ることは〈戦いの武器〉なのだという、戦術思考のようなものが見える。

 藤川はあとがきで〈漫画とは芸術の枠内にはいるかどうか、辛うじて入れるにしたって、最後尾にブラさがっている代物でしかなかった。〉(『子ども漫画論』 259p)と書き、しかしそんな後衛だからこそ漫画について書いてきたという。そして、漫画論を書けと〈しきりに奨めてくれた〉のは鶴見俊輔、〈つねに援護射撃をやってくれた〉のが佐藤忠男だったと感謝の辞を述べている。佐藤や鶴見が当時起こりつつあった新たなマンガ論に具体的な影響力を持っていたのがわかる。

 ここであげた三者の中でも、もっとも注目すべきマンガ論は、やはり石子のそれだろう。彼は「序にかえて」で、こう書いている。

〈このところ教育的見地からばかりではなく、もっと広い文明論的な視野に立ったマンガ論を望む声がしきりである。主要な新聞や雑誌の論調にも、しばしばそれをうかがうことができる。

 たしかに近年のマンガの急速な成長ぶり(漫画映画からテレビのCMまでをふくめて)は、マンガの機能面ばかりではなく、その原理、表現方法、伝達までをふくめた、全面的な検討を、マンガみずからが要請してきているといえる。〉(『マンガ芸術論』18p)

 この時点ですでに石子には、マンガを固有の現象として扱う方法意識が強くあった。教育を機能面とし、表現方法、伝達という側面と分け、後者の言説がマンガ自身の発展によって要求されているとしている。さらに、白土三平、水木しげるなど例をあげながら、既存の教育論的マンガ観を逸脱するマンガについて語り、〈楽しみながらよみ流されてきたマンガが、大衆の生活的感覚や心理、思想とわかちがたく結びつけられて、論として展開される必要を準備したのだ〉(19p)という。つまり、マンガに内在する論理を語る必要は、作品作家だけでなく、それを読み、共有し、楽しむ「大衆」とのわかちがたい感覚、心理、思想的な関係の「厚み」にかかわるものとされる。

また、石子は戦前にあったマンガ言説にも言及し、マンガを語る試みはすでにあったとしつつも、しかし〈それらは海外マンガの紹介を主体としており、マンガの独自性の追及にも、充分とはいいかねた〉(20p)とする。ここで言及されている大正8年の全5巻の研究書『漫画講座』も、同13年の『日本漫画史』も、僕は未見なので何ともいえないのだが、想像するに大正期のモダニズムとしてのマンガ言説だったのかもしれない。石子は、輸入思想的モダニズム言説には批判的だったろう。

 石子は、この時期にあってもっとも「自立したマンガ論」を要求した論客だったといえる。また、メディア論、表現論、読者論にも目配りし、戦前のマンガ言説にまで言及しえた。こうした蓄積が、当時よりはるかにマンガ言説のさかんになった現在、すっかり忘れ去られているのは、今となれば、いかにも奇妙に見える。もちろん、その責の一部はあきらかに僕を含む戦後ベビーブーマー世代のマンガ論言説の欺瞞や怠慢にあるだろう。今後、機会があれば、この時期のマンガ言説の紹介とあわせ、なぜそれがのちのマンガ論に接続されなかったのかを記述できればと思っている。

現時点で、自分の記憶にある先行世代のマンガ言説についての印象を一言でいえば、おおむね「つまらない」であった。自分が大好きで、それについての言葉を飢えるほど求めているのに、いや多分だからこそ、先行世代の言葉は隔靴掻痒の違和感を強く感じさせたのだろうと思う。たしかに、彼ら知識人の広い知識と方法意識は今読めば驚くほどのレベルをもっていたものも多くある。けれど、文明論や主義に接続されていったり、広範な(したがって自分には興味の薄い)事例と接続され比較されるにしたがい、自分とは無関係の言葉に思えたような気がする。その点では、現在もマンガ研究やマンガ論に対してある素朴な反撥とかわらなかったのかもしれない。要するに、人の言葉ではなく、自分の言葉で語りたいだけだったのだろうか。いや、そうでもない気がする。

僕個人の感じ方でいうと、ここであげた論者の中では、草森紳一ひとりがあまり「違和感」を感じずに読めたと記憶する。草森は、どちらかというとひたすら作品作家に寄り添い、そこを離れることが少なかった。言葉は直観的な鋭さを持ち、そのことに本人が自覚的だった。彼は『マンガ考』のあとがきで、こう書いている。

〈「マンガ評論家よ、出でよ」などという巷の声もあるようだ。しかし僕は、そんなものはいらないし、また職業的になりたつものではないと思う。ただいろいろな人が、マンガについて発言してもよいと思うし、また学問的に体系づける人がどんどんでてもいいと思う。[]僕の方法論は、マンガの見方であり、紹介であり、あくまでも印象批評、技術批評の枠を越えることはないと思う。これは、浅い志かもしれないが、この浅い志にみあうていどにしか、日本のマンガ界は、日本の読者は、まだすすんでいないからである。〉(同書 266p)

この文は、いろんな意味で僕には「わかる」ものだったし、今読んでもそう思う。

ほかのマンガ論が、抑圧されてきたマンガを称揚しようと肩をいからせたり、ありもしない要素をマンガの功績のように見なそうとしたり、またその勇み足で振り返ってその意に染まないマンガを否定的に語ったりしがちな場面で、草森は独特な冷静さをもっていたように思える。

事実、67年当時とは、まだつげ義春が「ガロ」で矢継ぎ早に短編を載せ、青年向けマンガの表現可能性が開き始めた時点だった。『巨人の星』が人気を得、『あしたのジョー』が始まり、「COM」が創刊された頃ではあるが、本当にまだすべては始まったばかりだったのだ。

僕自身は、数年ののちに大学生となり、70年頃、絵とコマによるマンガ表現論の可能性を展開しようとした。それが果たせなかったとき、こう思った。自分自身の能力だけではなく、ここにはマンガを語る言葉の未成熟と、自分が思い描くマンガ表現論を支えるマンガそのものの未熟があるのではないか、と。

(つづく)

Comment(21)

コメント

くもり

「未成熟」といっても希望のある未成熟ですね。ワクワクします。書籍として「出るべくして出た」という表現があるということは、皆の中に多かれ少なかれ、共通の「燻ぶっていたもの」があったということで、新しい漫画表現発展へ期待が当時の作品・雑誌、またその作者にあったということでもありますね。


現在の漫画業界に視点を移し、同じ観点で考えたとき、読者側の表現への期待も含め、落ち着いていることは確かと思うし、勢いのある漫画評論初期の文章を読むと余計にそう感じてしまいます。実際成熟期でありながら近年のファンタジー作品の多さは、後退としての初期手塚回帰とも思うことがあります。
昔あったラジカルさやイデオロギー的なものだけを求めているわけではありませんが、なんだか方法論としての「漫画」の可能性が大きくありながら、その広がり方がある一方向に絞られていっている感を、とくに一番重要な対象である少年漫画・青年漫画によく感じます。少年漫画「ワタリ」(白土)を読んだ監督がアカデミー賞映画「プラトーン」を撮ったような、そんな希望が生まれてくる要素もなんだか見えてこないですし。
原因の一つとしてよく言われる表現的「規制」は(形は違っても)昔からあったものと思います。ただその特定の規制に対して声を上げる人間が減ったのではないでしょうか。他のジャンル(漫画内です)に許容枠があるのでそこに移動する、といった無難な手段がすでに用意されてますから。ただ、そうした作品はそれだけを求めて構えている読者に届くだけの作品でしかなくなってしまうように思います。もし石子さんが生きてらしたら、はたして今の漫画を論じただろうか、そこが気になります。


…話は変わりますが、小学館のガロ買収については長井勝一著「「ガロ」編集長」に記述がありますよ☆

長谷邦夫

談志の本は、現在、枕元にあります。(笑)
NHKで最近やった特集を見逃しました。

草森さんは「COM」の評論連載で、ぼくのパロディを
集中的に取り上げて下さった。
嬉しかったですよ。本は持ってない。どうしてか?
ぼくはコダマプレスの赤塚新書や、ぼくの『しびれの
スカタン』のフォノシート・マンガなどを担当し、
つぶれるまで『東海道戦争』を描いていたんです
けれどね。

ガロ買収の件~今度、刊行予定のマンガ編集者
小説内にもちょっと書きました。
かつて、コミックボックスにマンガで歴史を描いた
ときに、才谷氏に取材してもらったんですが、
小学館側の証言者はいませんでしたね。

ぼくは2編におられた広瀬部長が怪しい!と
にらんでいますが、彼ははやく亡くなられていて
お話しは聞けていません。

村上知彦

ぼくが最初に買ったのは多分、草森「マンガ考」です。
高校一年、15歳のときですね。
引用されたあとがきを改めて見ると、ぼくの「黄昏通信」もしっかり影響受けてますねえ。ほとんどパクリじゃないかってくらい(笑)。
藤川「子ども漫画論」は、立ち読みしたものの物足りなく思ったのか、入手したのはだいぶ後です。
石子「マンガ芸術論」は、書店でみつけられなかったのか、入手できず。タイトルのみ伝え聞いていたような気がします。あるいは高くて手が出なかったか。そのへん記憶があいまいです。

ここに紹介された3冊とも、やはり高校生のときにリアルタイムで読んでいます(1950年生まれ)。そして同じように草森氏の著作に、もっとも共感を覚えました。すでにマンガを描いてはいましたが、マンガで思想を語るといったことには興味がなく、どのように描くかといった方面に興味が集中していたからだと思います。そのきっかけは、やはり『マンガ家入門』だったのではないかとも思っています。

『日本漫画史』は早稲田大学中央図書館の地下書庫に2冊ありました。上下巻かと思って2冊借りてきたら、同一の本が2冊でした。ほかに以下のURLに書影を掲載したマンガ入門書の数々を早稲田大学から借りたりコピーしたりしてきましたが、1950年刊行の『漫画自習手本』あたりまでは、漫画は「絵」の延長にあり、とくに戦前の場合は、画家が漫画を手がけるようになった例が多かったようです。マンガを読んで育った子どもが、いきなりマンガ家をめざすというルートは、やはり手塚治虫氏あたりから……という印象を持ちました。

 http://www.m-sugaya.com/nikki/bn2007_12.html#20071212

 また戦前の漫画入門書では、漫画を描く道具は「筆」が主体になっています。「ペン」が主流になったのは、戦後になってからのようです。

 こんな技法書や道具の変遷をみることで、漫画の歴史が少し見えてくるかな……などと思って読んでみたのですが、その後、伊藤剛さんの『マンガは変わる』を読んだら、やはりマンガの描き方本の変遷をたどった文章がありました。

 ぼくあたりの世代ですと、『マンガのかきかた』『マンガ家入門』(正・続)という秋田書店の3冊の影響が大きかったように感じています。

くもり

このブログ記事と、こないだ書いた復刻「嵐の忍者」寄稿に引用したこともあって、「マンガ考」を細かく読み直しました。やはり読みやすかったですし、作者が言う自分なりの「読者でありたい」という最後のセリフも大事に思いました。それにしてもこれだけの画像(海外モノ含む)をほとんど注記無しで引用出来ているという、いい時代だったのだと感じました。やはり「画」があると読み進めるのが楽です。ある意味「漫画のような本」ともいえるのではないかしら。


>長谷邦夫さん
小学館側の証言者がいないのですか。いままでちょっと期待していただけに残念です。

>くもりさん
>ガロ買収については長井勝一著「「ガロ」編集長」に記述が

ありがとうございました。今、コミックパークの連載で「ガロ」をとりあげようと思って、そのへんも少し読み直そうと思ってます。自慢じゃないけど、忘却力には自信がある(笑

>長谷さん

草森さんのCOMの評論コラムも、けっこう僕は影響受けてた記憶があります。COMについても、そのうちやらないとなあ。長谷さんの『東海道戦争』、今でも持ってます。筒井さんのは「SFマガジン」で読んで、新書も買いましたね。

>村上知彦さん
>ぼくの「黄昏通信」もしっかり影響受けてますねえ。

うん、わかる気がします。草森さんて、案外影響あったのかも。今、語る人もいないけど、マンガ論の先達の一人ですからね。後年、書の関係でお会いするとは、まさか思ってなかったけど・・・・。僕がタクシーの中でマイク・ミニョーラの本見せたら、もう子どものように見つめて返してくれないんで、思わず「さしあげます」っていっちゃった(笑)。今でもマンガ好きなんですねー。

>村上さん
>あるいは高くて手が出なかったか。

追伸
ちなみに藤川『子ども漫画論』三一 260p余で290円、
草森『マンガ考』コダマ 267pで300円、
石子『マンガ芸術論』富士 260p余で350円。
たしかにちょと高い(笑
僕は「芸術」っていう言葉にも、ちょっと反撥あった気がしないでもないな。

>すがやさん

当時は、技法書も読みましたね。僕はやはり手塚さんの入門書(秋田書店)が子どもの頃影響深くて、石森さんのは大人になってからです。リアルタイムでは影響受けてないですね。でも、とにかくマンガについて書いたものを片っ端から読んだ。そのくらい、少なかったんですね。新聞とかの記事は、むしろアニメ関連が多かったような気がする。今みたいに、いくら読んでも間に合わないような時代がくるとは、ツユ思わなかったなー。嬉しいような、辛いような(笑

http://www.m-sugaya.com/gif/manga_no_kakikata_1962.jpg
「手塚さんの入門書(秋田書店)」というのは、この本のことですよね? ぼくも小学6年生のとき、同級生の大熊君(名前まで憶えてる(^_^;))に、この本を貸してもらったのが、マンガを描きはじめるきっかけになりました。それまでは小松崎茂、高荷義之をめざしていたはずだったのですが。
 60年代のマンガ入門書というと、ほかに『まんが入門』(やなせたかし)や『シェーの自叙伝』(赤塚不二夫)がありました(『シェーの自叙伝』の実際の執筆者は、長谷先生だったはずです)。
 前者は外国マンガを含むコママンガの紹介が中心でした。後者は赤塚氏の伝記のほかに『おそ松くん』などのマンガと、その解題が掲載されていました。O.ヘンリーの作品(『最後の一葉』)のパロディもあって、「パロディの定義については中原弓彦氏にまかせて……」というような記述があったのですが、「中原弓彦」が『日本の喜劇人』や『世界の喜劇人』の著者で、小林信彦氏のペンネームであったことを知ったのは、もうしばらく経ってからのことでした。
 マンガが語られるようになったのは、団塊の世代を中心とするマンガ読者が少年から思春期を経て青年になっていく過程と歩みが重なっていたように思うのですが、その過程で、ぼくたち当時のマンガ少年(『マンガ家入門』『COM』世代)にとってエポックだったのは、小学館の「ボーイズライフ」という雑誌でした。このあたりの雑誌をチェックすると、少年マンガから青年マンガへの移行、そして貸本劇画家のメジャー誌進出の過程が、より明瞭になるのではないかなと思ったりしています。マンガや劇画だけでなく、ある意味、サブカル入門雑誌のようなところもありました。

>すがやさん

「ボーイズライフ」は、たしかに重要なんですよ。僕も読んでた。けど、はっきりいって中途半端だったために、記憶も中途半端なんですね。長谷川裕さんは「青年劇画誌」って『貸本屋のぼく・・・・』で書いてるけど、狙いは若者雑誌じゃなかったかな。今、手元にあるのは60年代後半の古本を後年買ったものだけど、読物のほうが多い。小学館の青年マンガ模索路線を跡付ける必要はありますね。その流れと白土三平の関係もかなり重要なファクターかもしれず・・・・。そういう地道な調査好きな人、求む・・・・っていう(笑

「ボーイズライフ」は「中学生の友」が休刊になって、かわりに創刊された雑誌ですが、中高生向け総合娯楽誌というイメージでした。全部買ったわけではありませんが、ほかに購読している友人もいて、雑誌を交換するかたちで、ほぼすべて読んでいます。内容は、ちょっとディレッタント的というかサブカル的というか。マンガは創刊号では『片目猿』(横山光輝)、題を忘れましたが白土三平のオムニバス作品があり、SF小説もあれば大藪春彦のアクション小説(1968年に連載された『血まみれの野獣』という作品は、三億円事件犯人が真似したといわれた)もあれば、長岡秀三(秀星)の原子力空母の巨大図解もありました。「劇画」の登場ということでは、やはり、さいとうプロの『死ぬのは奴らだ』から始まった007シリーズが、『台風五郎』など比較にならないほど緻密な絵で、実に衝撃的でした。
 小学館のなかでも、この雑誌のコミック部分が「ビッグコミック」に、記事やグラビアが「GORO」に分化したという位置づけのようです。
 ぼくは、この雑誌の読者欄で『墨汁三滴』という「肉筆回覧誌」を出すマンガ同人グループの会員募集案内を見つけ、カットを送って応募したのが、マンガの道に踏み出すきっかけになりました。こんなこともあったので、よけい印象が強いのかもしれませんが。
「ボーイズライフ」が短命に終わったのは、「週刊平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」の創刊があったからかもしれません。

 そういえば、編集プロ勤務時代に草森紳一氏のところに原稿取りに伺ったことがあります。最近、『本が崩れる』という壮絶な本を出されていましたが、当時(1970年)も、マンションの部屋は玄関先まで本で埋まっておりました。

>すがやさん
>「ボーイズライフ」は「中学生の友」が休刊になって、かわりに創刊された雑誌ですが、中高生向け総合娯楽誌

あ、そうそう。そうでしたね。僕の記憶に残る記事は「デートのしかた」みたいなので、学校のプール脇の写真があったような(汗

>小学館のなかでも、この雑誌のコミック部分が「ビッグコミック」に、記事やグラビアが「GORO」に分化したという位置づけ

ああ、なるほど! そういう感じですねー。小学館には、そういう志向の編集者がいたんですね。どっかで読んだ気がする。若者向け雑誌の試行錯誤って感じですね。

くもり

たびたび、すみません;

前にちょっと調べてwikiの「ボーイズライフ」の項を書いたのですが、なんだか書き捨てみたいで今でもそのまんまです;思いっきり自推論入ってますが参考になれば幸いです(^^

くもり

曖昧な書き方ですみません。自推論というのは「この構想が1968年4月の「ビッグコミック」創刊であり」の部分だけです。あとはちゃんとしたデータなので失礼しました。

Wikipediaに「ボーイズライフ」の項目があったんですね。『片目猿』は創刊号からだと思っていたのに、半年後だったのか……。
 宮谷さんの2作は、いまも切り抜きで持っています。
 でも、夏目さんも書かれているとおり、若者雑誌であって、マンガ雑誌ではなかったですね。

>すがやさん

横山光輝『片目猿』、好きだったっす!
宮谷さんは68年頃ですかね。

とり・みき

数年ぶりの書き込みですが……。
皆さんのコメントを読んでいるだけでも勉強になりますね。

ちなみに僕が初めて読んだ(自叙伝や「マンガの描き方」の類でない)マンガ評論書も藤川治水『子ども漫画論』でした。たいへんにヤな小学生だったといえましょう。自分で買ったのではなく親父の書棚にあったのですが(たぶん「熊本人の本」ということもあって買ってたんじゃないかと思います)。

『片目猿』は、その後の日本の戦国時代もの、中国古代史もののさきがけみたいな作品でしたね。いまチェックしたら今年の1月に講談社文庫で再刊されていました。

 宮谷さんの作品が掲載されたのは、1968年頃だと思います。『魂の歌』に『不死鳥JYO』。同じ頃、「少年サンデー」にも『闇に流れる詩』や『75セントのブルース』といった読み切り作品が掲載されました。この頃は、五木寛之氏の小説を意識したような内容のものが多かったですね。そんなこともあって1970年に「女性自身」で五木氏の『海を見ていたジョニー』が“劇画化”連載されることになったとき、ぼくは原稿取りを担当することになっていたのですが、「この小説を劇画化するなら宮谷さんしかいません」と持っていた宮谷作品の切り抜きを「女性自身」の編集者を通じて五木氏に見ていただき、OKをもらいました。
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~FREE-MY/miyaya/johny01/j02.jpg
 この原稿のトレペにかかっているネームの文字は、たぶんぼくが書いたものです(級数指定は「女性自身」の編集者)。最初、原稿の上にトレペを載せて、ボールペンでネームを写していたのですが、筆圧が強いせいで原稿用紙にへこみをつけてしまい、宮谷さんに怒られたなんてことも(^_^;)。
 この連載は、光文社のストライキで「女性自身」が休刊になったため、連載も中断した状態で終わりました。

わー、とりさんまで・・・・。何かえらいことになってきたな(笑
ちなみに漫棚通信さんが「今ごろ『戦後マンガ史ノート』を読む」というエントリを上げてますね。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/

とりさんと夏目さんのブログで遭遇するのは、「スクリーントーンがいつから使われていたか」という話題以来でしょうか。オフラインでは、今年、すでに2回ほど会っていますが。

長谷邦夫

>ふ~じいさん
『東海道戦争』は、筒井さんが「ボーイズライフ」に
売り込んでしまい、その増刊で一挙200ページ
掲載って決定。カラー扉を作画中、電話があった。
「ビッグコミック」創刊で、ボーイズが無くなるんで
す、と。
お詫びに「デラックスサンデー」で4回分載で、という
ことになりました。
それを断り「かわりに『アフリカの爆弾』を描かせて
下さい」とお願いしました。で、これを48ページで
描いたんですね。東海道は、やはり250ページで
一挙!といきたかった。
結局朝日ソノラマが出したい~と言ってくれて
やっと出たんですね。企画元がコダマプレス。
不思議といいますか、おさまるところへ収まった
感じですね。

くもり

「ボーイズライフ」を一通り読んでみて、「ボーイズライフ」で育まれた巻頭ピンナップ特集記事、その視点が、そのまま「ビッグコミック」に受け継がれているように思いました。


「ボーイズライフ」は読み物中心の雑誌としていたので、1963年創刊号に漫画の掲載は巻末の白土作品「ざしきわらし」のみです。1964年「ガロ」創刊号にはこの作品が巻頭カラーで再掲載されました。1967年「ボーイズライフ」に白土作品再掲載連載(この雑誌唯一の漫画再掲載)と「ガロ」買収の打診、1968年「ビッグコミック」創刊号には過去「ボーイズライフ」用に描かれていた白土作品が巻頭掲載されました。この時期の「ボーイズライフ」にはこの創刊広告が載っています。1969年、「ボーイズライフ」は「週刊ポスト」に吸収される旨を載せ、休刊となりました。「ボーイズライフ」がそのまま「ビッグコミック」にならなかったのは、「ガロ」買収失敗による計画変更が大きかったのではないかと思っています。

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