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夏目房之介の「で?」

中京大国文学会の公開講演レジュメ

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明日、中京大学でおこなわれる中京大国文学会秋季大会の公開講演会(午後34時 一般公開なので、誰でも聴講できるはず)のレジュメです。

 

 『「マンガと文学」をあらためて考える』夏目房之介

『「マンガと文学」をあらためて考える』夏目房之介

1)「マンガと文学」の不幸な関係

戦後大衆文化としてのマンガのコンプレックス 映画、絵画、文学

手塚治虫におけるコンプレックスの諸相

A)映画 いわゆる「映画的手法」の導入→戦後マンガの確立(現在再検討中

B)絵画 デッサン・コンプレックス 戦前からのマンガ家=画家崩れ多し

C)文学 『ファウスト』『罪と罰』などのマンガ化 子供の領域からの逸脱

60年代「若者文化」革命の時期、対抗文化としてのマンガ=青年化

鶴見俊輔、尾崎秀樹、佐藤忠男、石子順造ら大衆文化論的批評の登場

読者層の上昇→劇画~青年マンガ誌の流れ→表現の過激化と青年市場の確立

60年代末~いわゆる「市民権」をえた(?)マンガについての報道

月刊ガロ(68年臨時増刊)「つげ義春特集号」→詩人・天沢退二郎「芸術」評価(「展望」692月号)と、石子ら「漫画主義」同人らの反撥

既成の社会秩序や枠組(ハイ~ローアート)からのランク付け意識による評価への、知的マンガ愛好層(当時の大学生など)の反撥気分の背景

・・・・と同時につげマンガは「私マンガ」として「私小説」との対比で語られた

→「マンガをマンガとして(自律的な分野として)評価・批評すべし」

70年代末以降の元マンガ好き大学生らによる戦後世代マンガ批評の勃興

 村上知彦『黄昏通信』ブロンズ社 79

まんがを自らの表現手段として意識し、方法として獲得し、描くことの意味を見いだしていった過程がそこ[COMの創刊]にはある。[]ぼくらがぼくら自身の手によるぼくらのためのまんがを発見していったこと、[]メディアとしての自意識を持ちはじめたということに他ならなかったのである。〉(同書 2829

[文芸春秋789月号の石子順によるマンガの地位向上提言について]自分はどんな高みに立ってまんがをみているつもりなのだろう。まんが以外の、どのような要素がつけ加われば、まんがが「たかが漫画」でなくなるというのだ。このように、まんがをまんが以外の、すでにある自らの立場から裁断しようとする試みからぼくらはいっさい無縁でありたい。〉(同 78

だからぼくらは、ぼくらの言葉が権威を持ちはじめることを、絶対に拒否する。〉(同 81

知的な権威・既成の枠組に対する反抗=マンガという分野の存在意義

「マンガとともに育った戦後世代=若者」の思想宣言だった

村上によって始まるといっていい、いわゆる「24年組」少女マンガ評価について慎重に「文学的」評価(「文学」との対比)を避けている

米沢嘉博(コミケ代表)、エロ劇画ムーブメントなど、戦後ベビーブーマーによるマンガ批評運動は、同様のコンプレックスを共有

「マンガと文学」という観点そのものが不透明なまま「マンガ批評」言説が成り立ってゆく

2)「マンガと文学」を語りうる世代

80年代~ マンガの「文学」への影響現象

 村上春樹と佐々木マキ 吉本ばななと少女マンガ

大塚英志(おたく世代のマンガ論)による少女マンガ「文学」的評価

フキダシの外の文字情報に表現の比重が置かれているか否かが少年まんがと少女まんがを区別するおそらくは唯一の基準〉(大塚『戦後まんがの表現空間』法蔵館 94年 61

24年組」評価

日本の近代文学が〈内面〉を発見することで制度として成立したように、少女まんがもまた〈内面〉に描写の対象を見いだしその技術をつくり上げることで、少年まんがのサブカテゴリーから自立する〉(同上 65

後継世代による正面からの「マンガと文学」対比論

文芸批評的な呪縛からの脱出としての夏目「マンガ表現論」と並行=90年代

村上、米澤(夏目)世代からは出てこなかった観点

3)マンガと文学を巡る新たな関係 文脈の変化

マンガの市場的発展とコンテンツ生産力、メディア・ミックス的浸透力(8090年代)→ マンガから他媒体・商品への流れ(マンガの大衆文化的貯水池化)→ メディア・ミックス市場の細分化、均質化→ マンガをも多数のジャンルの一つとする「キャラクター文化」への移行(90年代後半~?)

同時にハイアート領域の敷居の低下も進行 →

 村上隆ら新現代芸術 『のだめ』によるクラシック・ブーム

ジャンル意識の混交 序列の崩壊 越境現象

→ 様々な「マンガと文学」を巡る問題系の再発見へ

週刊朝日百科「世界の文学」110名作への招待『テーマ編 マンガと文学』019月刊 夏目房之介責任編集

目次

夏目房之介「戦後のマンガは文学を超え、独自の「世界」を表現しうる媒体になった。」 

・・・・「文学を超え」云々は当然夏目の言葉ではない

宮本大人「「漫画」の起源 不純な領域としての成立」

 ・・・・日本の近代と芸術イデオロギーの輸入による近世の「前漫画的表現」の変容。絵と文字の混交表現から純化過程(純粋「絵」画と純粋な言語芸術=近代小説へ)と、中間的な曖昧な領域としての近代漫画の成立。

鷲谷花「手塚治虫 漫画の時間、小説の時間」

 ・・・・子供向け漫画の「終わりなき反復」的無時間構造に対する「近代小説」的な「終わりのある物語」の導入として手塚を論ずる。

竹熊健太郎「ドストエフスキーに挑んだ手塚治虫」

斎田亨「つげ義春 私小説と私漫画」

夏目房之介「漫画・コマの成立」

 ・・・・マンガによるマンガのコマの近代的カテゴリーの成立図解 [1]

瓜生吉則「梶原一騎 「熱血」の系譜」

 ・・・・講談社「少年倶楽部」熱血小説の伝統と梶原原作の台頭=メディアとしての「少年マガジン」。

ヤマダトモコ「少女マンガの中の〈文学〉」

 ・・・・水野英子、わたなべまさこら少女マンガの「外国文学」イメージから萩尾望都のヘッセ、ケストナーら西洋文学の影響などへの推移。

伊藤剛「無垢なるもの」

 ・・・・近代児童文学イデオロギーとしての「無垢」信仰と戦後マンガのそれへ。キャラクターから見た近代文学と美少女コンテンツの連続性。

呉智英「諸星大二郎 マンガに再生した支那文学」

大月隆寛「マンガと文学の難儀な関係」

 ・・・・柳田民俗学的な意味での「文学」史(講談、浪曲など語り物芸能など含む)とマンガの関係への視角。

関川夏央「マンガと「原作」の関係」

多様な対比や連続性(非連続性)、メディアやジャンル、キャラクター文化としての共有関係など、豊かな研究課題満載の分野

参考文献 伊藤剛『テヅカ イズ デッド』NTT出版 05

瓜生吉則「マンガを語ることの〈現在〉」 吉見俊也編『メディア・スタディーズ』せりか書房 00

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