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夏目房之介の「で?」

「いい時代」たぁ何か?

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もののついでですが「いい時代」っていいぐさは、たいていが「過去」についていわれるもので、しかも「皮肉」っぽくいわれる。正味、いい時代だったかどうかはよくわかんない言葉だ。が、本気で「いい時代だった」といわれることもあって、それもまた必ずといっていいほど「過去」である。そして、多分その当の「過去」の時代には、あまりそんなふうには思っていなかったんじゃないかと思われる。
少なくとも、知識人とか報道人はたいていそう思わないように出来ている。あるいは「悪い時代だ」「良くない社会だ」といっておいたほうが格好いいか、無難なのだ。「オールウェイズ」な、懐かしの昭和30年代だって、当のその時代には、貧乏で不潔で非文明的な敗戦国の矛盾だらけに見えてたに違いないのだ。俺は子どもだったから、よくわからんけどね。

大体、知識人が社会的エリートであった時代、彼らは社会の色んな側面が(大衆よりも)「見えて」しまう立場にあり、しかもエリートだから「少数者の孤独」なんかも抱えているので、いきおい「今の世(この国)はダメだ、間違ってる」という危機感に満ちたご挨拶になり、それなりにそれが社会的な責務を果たす動機になっていた。けれど、現在の日本のような高度な大衆社会では知識人そのものが亜流化していて、ただの言説の型に近くなってる。

危機感煽動型「世の中ダメだ論」は、もはや半分以下しか有効じゃない、というのが僕の仮説。「いい時代(社会)」だったときなんて、ホントは一度もないのに、人は「今」をクサすためにそう「言ってみる」だけなのだ。同じ人が、その「いい時代」には、時代や社会をクサし、恨み、批判をさんざいってたりするってのが人の世の常って奴だ。
と同時に、「今」だって、じつはご同様に「いい時代(社会)」でありうる。そういう認識でしか、多分ちゃんと世の中や人を見ることはできない。批判の鋭さをひたすら競う「批判」型知識人は、その競争に最終的に勝つために、どこにも行けないどん詰まりの「批判大王」=裸の王様になってしまったりする。もうそろそろ、それダメなんじゃないか、と僕は思う。
そういう考え方からは「今の世の中、どん詰まりだ」っていう類型しか生まれてこないので、どん詰まり感、危機感を煽るテキヤの叩き売り商売になってしまう。

たしかに、昔だって限られた階層や人、趣味や領域にとっては、ホントに「いい時代(社会)」だったかもしれず、そういう例を挙げることは、いくらでもできる。でも、それって同時にその逆の例(悪い時代だった例)をも挙げられるってのと同程度の説得力しかないよってことだ。
たとえば、戦争の「悲惨」を経験した人は戦後を「いい時代(社会)」というかもしれない。でも、逆に戦時中のほうがよかった人だっているだろうし、戦後、かえって堕落したと思ってる人は確実にいる。何か大事なものを喪失したと感じる人はもっといるだろう。そういう人がいう「いい時代」が果たしてほんとにそうなのか、っていう問題は、同時に「いつの時代も両面がありえた」という観点から考えるべきだろうと思う。そうじゃないと、どっちかが正しいっていう話にすぐ落ちて安上がりしまうから。

議論がメンドウになってきたので、こんへんで。
「いい時代」だったなぁ、って感じ、思うこと自体は別に悪くないけどね。

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